アメリカ文学(Pさん)
新年が明けて二日が経った。
最近、アメリカの作家の本をよく読む。何か、そこに共通するものがあるような気がする。特に、トマス・ピンチョンに色濃くそれが出ている、繁縟さを中心とする感覚だ。そして、それが始まったのが、フォークナーだという感じが強まっている。フォークナーは、ヨーロッパから発した意識の流れというものを、独自の捉え方をして変形させた感がある。また、自分の土地のことを書くためにそれを利用したという感もある。それは、ヴァージニア・ウルフのやり方を、ガルシア=マルケスや、ホセ・ドノソ、その他のラテンアメリカ作家が取り入れたのと同じ必然性に依るのかもしれない。しかし、どちらにしてもそうだが、そこに不可逆的に、ヨーロッパの血も混ざることになる。それで一向にかまわないというのが結論だ。話を戻して、フォークナーの意識の流れの捉え方というのが、その後のアメリカ文学の、少なくとも文学というものを継承する人々を呪縛する、規定する捉え方となったのかもしれないとも思う。そこにきっと恣意があるはずだろう。何でもかんでも運命や、既定路線や、必然性で決められたのでは息苦しくて仕方がない。私達は、少なくともそう捉えなければならない義務があるんじゃないかと思う。私達にも、意志をもって文体を選択する権利があると。