自転車とスパイス(Pさん)

 自転車を漕げるという事は、一種の飛躍を経験することになるが、その飛躍を、微分という、連続した状態を経ることによって得る、という事に、当時は快感を得ていたし、もしかしたらそれは、現在にも続く自分の傾向かもしれない、と今になって思う。
 小説を僕が書きたいと思うとき、小説が書けている、という状態を想像しつつも、そこへの飛躍を、いわば「転ぶ」ことである、物質の位相変化のような、小説らしい小説を書くという事を目標とせずに、とりあえず何かを書いている、その状態の修練された延長として、小説が存在する、という事を前提とした。書く練習をする際に、それが小説であるという状態を意識せずに小説に近づけることができる、という、これは微分的と言えるのかどうかはわからないけれどもその志向を維持していた。
 結果、小説を書くときに、やはりそれが小説であるという、今の言葉でいえば「飛躍」の部分を意識せざるを得なかったのだが、というのも、そういう不定形な文章というのが、見渡してみると、ほとんど存在しないというのが原因だが、小説か詩か書き下し文か評論かレポートかに画然と分かれる文章なんて、考えてみればおかしい話だ。
 話を戻すと、何か連続した努力を続けた先に、たとえば三輪車が急に二輪車になるといったような、不連続な変化が訪れるはずだ、という確信がその頃から自分の中にあった、という事になるが、逆にいえば、その後のそういう決意みたいなものが、その時の自転車の思い出を象徴として使っているという言い方もできるかもしれない。(続く)

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