コンピュータ・文字の話(Pさん)
引き続き、しつこいようだけれども、パソコンで何が出来るのか考えている。
極端な話をすると、パソコンというのは、チューリング完全な言語を備えているはずだから、基本的にはなんでも可能なはずである。
例えば。あるパソコンで人間のエミュレートが行えたとする。それであれば、データ容量と計算能、現実で言えば時間と量のことを度外視すれば、このパソコンでも、その人間のエミュレートというものが可能になるはずである。
これはコンピュータの万能性を信じているというよりは、プログラミングとかコンピュータによる計算可能性とかいったことに関する原理みたいなものであり、今手にしているそのものへの能力に対しての敬意みたいなものである。
したがって、例えばその装置を使って単にエロ動画を漁っていたりだとか、エロくなくとも爆笑動画を漁っていたりだとかするだけの使い方は、確かに個人としての快をある程度満たす道具にはなるのでもあろうが、その能力というものをあまりに卑小な使い方しかしていない、といえる。少なくともチューリングの時代の理想で言えばそうだ。チューリングは、まさかコンピュータがエロ動画を漁るために使われると思ってはいなかっただろう。
極端な話はそれくらいにするとしても、何かしらクリエイティブなことをしている人と同じ道具を持っているのであり、自分はそれを生かせていないだけだという思いが、なんとなくある。
僕は以前にPerlというプログラミング言語を習得しようとしていたけれども、やっていたことは基本的には車輪の再開発という、あえて今まで万人の踏んできた轍を、再び踏みなおすということを延々と行っていた。
例えば、円周率の計算。ランダムに針を落とすというビュフォンの針のやり方と、解析的な分数による数列の解というのを使って、プログラミングで解を出していたと思う。
きっと、そういう専門学校でいう最初の数課で行うものだったと思う。
速読をしたかったので、文字がいろんな速度、いろんな文字数ですばやく表示されるというソフトも作った。結局、ふつうに読んだ方が早かった。あと、あえてテキストデータ化されたものの中で読みたいものというのがなかった。
そう、プログラミングをしているときに出た悩みのいくつかは、結局は知っている解を出すためにプログラムを組んで、知っているものが出てきて、さてそれでどうするんだ、一切無知の問題は出てきようがないじゃないかというところにあった気もする。
タイピングを趣味にしていたので、タイピングソフトを作ったこともあった。infoseek iswebという、ホームページのプラットフォームが潰れたので、昔に作った『吾輩は猫である』の本文を延々と打ち込むというタイピングソフトはもうなくなってしまった。一章分は作った。二章の途中でやめた。自分でも打った。もう指が痛くてしようがなくなった。
何が言いたいのかというと、単に昔話がしたいだけなのかもしれない。
そうではなく、今度こそは、小説を書くということに、このコンピュータ、このコンピュータが可能にする何かしらのソフトやインターネットリソースへのアクセスを活用していきたいというところである。
人文的なアプローチもあろう。自分が何を知るかとか、何をどういう風に読むかとか、ジャンルがどうだとかジャンル横断性がどうだとか、同時代性が、時代性がどうだとか。その一方で、技術的問題も確かにその辺に転がっているんじゃないか。
また関係ない話をすると、一時期テキストデータを構成する文字コードというものに執着していた時代もあった。文字は1バイトとか2バイト、あるいはそれ以上のバイトの空間の中に位置づけられる。それをどのようにプロッティングするか。何を一文字とするか。どこまでを一文字とするか。その規格を世界的に定めたものがいわゆるユニコードというものだが、これがまた、まだ確実には制定されていないのである。一つのバージョンを作る。それには日本語の中世の変体仮名が、あるいは漢字の別字体が入っていないじゃないか。となると、それを表現できる新たな拡張コードが、あたかも一軒家の二階にデカすぎる出窓を設置してその出窓が一つの居室みたいになるみたいな増築をえんえんとかましているのである。僕の知っている範囲では、その増築がふくらんでマルチバイト文字というのがとどまるところを知らない。
書くことに戻ると、文字がコンピュータにおいてどう表現されているのか知らなければ、文字を書くこともままならないと思っていた。実際、それを学んでよかったところもあったが、今は、固定化された常用漢字の集合とひらがながそろっていればもうそれでいいじゃん、という一般的な感性に戻りつつある。巻物に記された文書が、デジタルに文字コード化されなくても別にいいんじゃないのかな、というような。
表現というのはそこにあるのではない。いや、あらゆることが表現なのかもしれない。手で何か書く場合に、まず線が文字として認識されるのかどうかという問題がある。活字にももちろんある。そんなことはないという人は、一冊の本の活字を一度自分の手でパソコンで文字に入力してみるといい。どこかに必ずそれをどう入力していいのかわからない文字が出てくるはずである。一対一対応するという無条件の前提というか信頼は幻想でありどこかで裏切られる。書かれたものは、どう読まれるのか、あいまいである。別にそれでいいのかもしれない。まして、書きと読みが一対一対応するなんて、ありえない。気持ち悪い話でもあるのかもしれないが、面白くもある。
なんだか、文字数は稼げても、何ら新しい発想は出てこない。本は読んでいる。ラジオで触れたかもしれないが、ヘンリー・ミラーの『冷暖房完備の悪夢』という本を、継続的に読んでいたりする。それに対する考えも、なくはない。けれども、明確にはまとまらない。これはヘンリー・ミラーの晩年の作であり、けっこう達観している。帯に、「今までの前衛的な手法を捨てて、裸の自己と対峙することになったのだ」みたいなことを中村真一郎が書いていたけど、裸の自己なんてあるものか、と思った。時代時代で裸の自己とは何か、どういうものを表現すればそれが裸の自己らしく見えるのかを、演出し続けているのだ、とうとう裸の自己が現出したのだ、なんていえば、それが最終極点のように見えもしようが、そんなことはない。それもいずれかの演出に過ぎない、前衛の手法といっているそれらと同じレベルにあるもののはずだ。
それとも、なにか、ヘンリー・ミラーは晩年の坂道を下るにつれてどんどん凡庸化、自己のやり方を反復するだけになっていったとでもいうんだろうか。というと、それはそうかもしれないとも思うけれども……。
今回はだらだらと長すぎたし好きなことを語りすぎた気もするので、次回また少し調整しようと思います。