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神野守先生が紹介してくださった事


「ネタバレ」
私は、この言葉が嫌いだ。
誰かの作品を説明する時に
「ネタバレになっちゃうんだけど〜」
のように使われる。

この言葉、制作者にとっては

「は?」

という話だ。

あなたが ネタ? を話した所で 作品の根本的な部分には到底辿りつかない

ネタを聞いた所で、作品をわかった気になってもいけない。
私も昔はそうだった。
一度、考えてもらいたい。

「ネタバレ」

この言葉、おこがましくないでしょうか。




私が、上の文章を書いた訳は一つある。
神野先生の小説を紹介させて頂こうと思った。しかし、私がどんなに神野先生の作品を紹介しても、神野先生の作品を語るには言葉が足りない事を初めに言っておきたいからだ。
紹介なんて、とんでもない事かもしれない。
これは感謝なのだから。

神野先生が、上の記事を書いて下さった。
記事の、猫が歩き、砂浜の波が転がっていく写真をみてほしい。
私は嬉しくて、きらきら笑って喜んだ。

ラッパー風に言うならば、

今思う闘いの日々 
感謝する事にあるれ出す慈悲

である。

マジ感謝なのだ。
平安時代の様に、和歌を贈られた時のように粋な返歌を贈らねばならぬ所だが、嬉しさのあまり五七調におさまらない。

特に嬉しい所がある。
神野先生の文章の中で、私の記事を2つ紹介して下さっているのだが、今まで誰にも触ってもらえてなかった部分に触れてあるのだ。
カユいところに手が届く。
なんと優しい事なのか。
そこに触れて、おもしろい記事を書いていただいている。
整えられた文章、とても好きだ。
これは、正直お金を払っても享受できない事だと思う。

神野先生のページに行くと、他にもオススメの記事について書いてある。
これは、どんなに科学が発達してもAIにはできない所業だ。記事を受け取った人間の喜ぶ気持ちが違う。
人に紹介されるのと、AIに紹介されるのでは雲泥の差がある。
それとも、AIに紹介されたり褒められたりして喜ぶ様に、この先の人間がなってしまうのか?
これは自慰行為も甚だしい。
そうなっては、人間の存在はいらなくなるだろう。
つまり、神野先生が紹介して下さった行為は、人間の根本的な感情を揺さぶる行為だと感じた。
どれだけ人間の感情に入り込めるか、それだけを基準に作品を作っている人なのかも知れない。

以下、神野先生の事を先生と呼ばせていただく。 
今さら感もあるが、理由がある。一つ目に、先生の名前をあなたに知ってもらいたかった。(知らない方は恥ずかしく思ってもらいたい)
あと、日本人としていきなり「先生」と単独で呼ぶのは恥ずかしいからだ。

ここで、先生の紹介ページを張らせていただく。先生の作品は、kindleで拝読できる。
それだけでも得した気持ちになるのだが、更に耳寄りの情報もあった。
ココナラで文章作成の仕事もされている。

まずアイコンを見てもらいたい。猫のりりしさよ。
美の黄金比を保った横顔が、かわいらしい。
ちなみに、先生の「歌ってみた」もある。

記事を読んでいくと"芥川龍之介"について書かれているではないか。
先生! 私も、芥川龍之介が大好きです!

私は、芥川龍之介の作品の中で『蜜柑』が一番好きだ。
この作品の好きな所で、一文で三人の登場人物の目線からの風景を描写している所がある。
この一文を読んでいただきたい。

するとその瞬間である。窓から半身を乗り出してゐた例の娘が、あの霜焼けの手をつとのばして、勢よく左右に振つたと思ふと、忽ち心を躍らすばかり暖な日の色に染まつてゐる蜜柑みかんが凡そ五つ六つ、汽車を見送つた子供たちの上へばらばらと空から降つて来た。私は思はず息を呑んだ。さうして刹那に一切を了解した。

芥川龍之介 『蜜柑』
筑摩書房(大正八年四月)





上記の文章は、
・蜜柑を持っている娘
・蜜柑が空から降ってくるのをみた子どもたち
・刹那に一切を理解する主人公
この三人の視点が描写されている。
さらに、後半の文章の末の文字を
「~た。」「~だ。」「~た。」
と同音でつづっている。
芥川は文章の語尾を同音で終わらせるのを余り好まないが、ここではあえてそうして、主人公の颯爽とした感情を表現しているところが素晴らしい。

この物語、誰が何といおうと美しい。
主人物が汽車の中、新聞を読み憂鬱な気持ちになるところから物語が始まる。
世界は汚職や戦争で溢れかえる有様だ。
そしてサラリと柑橘類のような暖かな爽やかな気持ちを読者にプレゼントし、物語は締めくくられる。
読むまでに5分とかからない短編だが、私はここに芥川龍之介の文章の素晴らしさが詰まっていると感じているし、疑いもない。
文章は基本モノクロだ。モノクロだが頭の中で色が付き、言葉が誰かの声で語られ、映画のワンシーンより色濃くなっていく。


芥川といえば、

「刺す。さうも思つた。大悪党だと思つた」
太宰治の作品が芥川賞の候補に残った。その時に太宰が川端に送った言葉だ。
芥川賞の受賞に反対をした川端康成に対して太宰治は上のように言った。
ガチギレした太宰の気持ちもわかる。
太宰の作品でなく、人間性を理由に受賞を反対した川端康成も芥川の文章が好きなのだろう。
後世に残った二人文豪の葛藤があった。それほどまでに、芥川龍之介の文章は美しいのだもの。


なぜ、芥川龍之介の文章に触れたかというと、ちゃんと理由がある。
先生の文章を読んでいて、芥川龍之介の文章が連想されたからだ。
伝わらないかもしれないが、筆が柔らかな印象がある。

私なんかは、
「ちゃんとしないとサンタさん来ないよ」
と母から小さいころ言われた記憶にしがみついて、どうにか
「ちゃんと」生きたつもりで、付随した文章がある感じだ。

しかし、先生は違う。
冒頭でも述べたが「ネタバレ」そんな言葉で言い表す事ができないほどの表現が書き連ねられている。

先生の作品で
『夢を叶える短編集1:未来小説』
というものがある。
念の為に言っておくが、
先生は、小さい頃からの夢である小説家になった。
夢が現実となった人だ。

この短編は、様々な人の夢を集めたものである。
夢を集める過程で、どのような単語が依頼者から集まったのか気になるところだ。
それらの単語を先生はどのように文章にしたのか。夢をかなえた先生は、どのように文を、人生を組み立てたのだろう。
依頼主の夢を文章とすることで、夢の持ち主の目標が達成に至るに違いない。

小説の主人公たちは、ノートに自分の夢を描いていく。
ただ書くのではない。もう夢が叶った事として文章を書くのだ。
そこには、願望ではなく単に感謝の言葉がつづられる。
だから未来小説なのだ。

時間は未来から来るのか、過去から来るのか。
はたまた、今此処だけなのか。

余談だが、最先端の科学は、数日前に行われた密会の会話の内容を知ることができる。これは盗聴器を使っての事ではない。
人の言葉が発せられた時、空間に痕跡が残るらしい。
雑音や風の音などのノイズを除去していくと、過去にそこで何が話し合われたかがわかる。というわけだ。
夢の場合はどうなるんだろう。

話についていけない人は、ぜひ先生の作品のページをめくってもらいたい。
きっと豊かな気持ちになれるはずだ。

私は眠くなってきたので、このまま寝て胡蝶の夢を見ようと思ふ。

地上最大級の感謝とともに  吉日


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kuzumiman
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