ぼくむしょく ほとんどむがい
表題はある日、図書館で見つけた文章の一節である。
その他に本を借りた。
『果たして彼女は存在したのか?』
高橋次郎 著
と綴られていた。
以下、その日を含め、いろいろな人の回顧録をまとめたものである。
様々な回顧録をもとに、推測されるのは、人間の心理の変化だ。
人は誰しも何かを求めて働く。何かを得たり失ったりする。
そして、生きていく。
あなたがやりたかった事とは何ですか?
はじめに謝罪させてください。
高橋先生とは、ぶどう摘みで知り合いました。
とても素晴らしい方で、いろいろな研究もされています。
自分の作家人生の紹介として、「漁師」の単語を入れたいが為にカツオ漁船に乗り込んでしまう行動力溢れる方です。
世界一周や十二分な職歴などの経歴があるのにです。
カツオを一本釣りする情景を説明してくださいましたが、波しぶきが目に映る程の描写で語っていただきました。
先生の文章の中で、私の心の拠り所とも呼べる作品があります。この場を借りて換骨奪胎、パクらせていただきます。
※換骨奪胎
最近、若く有望な方に教えていただいた四字熟語です。
これを使えば許される気がしたので使わせていただきました。
とある回顧録より
不肖は中学生の頃、角オナにはまっていた。
角オナとは角でオナニーをする事の略称である。
角などを使って自分の局部に圧迫感を与え、快楽を得る方法である。
大人になるにつれ、デメリットや不格好さから倦厭の対象となる自慰行為だ。何より汚れる可能性がある。床などにティッシュを並べてもだ。つまるところ、自己完結・自己中心的なのだ。
快楽の一部である性欲は、性ホルモンのテストストロンと密接に関係しており副交感神経で血が局部に送られ、交感神経によりオーガズムに達する。
その後、快楽ホルモンと呼ばれる脳内物質「ドーパミン」が分泌される。
一般的に男女の性欲は20代が最高点で加齢ともに徐々に低下する。
人生で言えば、自分の中学時代はこの快楽の出発点であった。
その出発点に私は人生で初めて「恋」を経験した。
恋の相手は、同級生だった。
とても笑顔が素敵な人だった。
私はその人の笑顔を見るのがとても好きだった。
会うたびに笑ってほしくて、取り留めないことを話しかけた。
その人は笑うたびにえくぼが、髪の毛が光に照らされると天使の輪が見えるのだった。
自分は恋をしているんだ。という認識から学友にそのことを話した。
学友は一通り私の話を聞くと、一つの疑問を私に投げかけた。
「本当に 好きな人でオナニーはできなくない?」
学友が言うには、本当に好きだと自慰行為の対象としてみることすら恥ずかしくなってしまう。好きな人を想像してのオナニーが出来なくなるとのことだった。
「逆にそんなに好きでない人を想像してはできるんだよね」
サッカー部であった学友は、さわやかに笑いながら私にそういった。
私には、学友の気持ちがよくわからなかった。
「恋という漢字は下に心があり 愛は真ん中に心があるでしょ」
と恋愛のコラムなどでよく言われる様な事も言われたが、私にはよくわからなかった。
「わからなかった」と過去形で書いたが、今でもよくわからない。
学友との会話は木々の葉が風にゆれ、互いに言葉を交わしているようだった。
今でもわからない。
わからないまま、私は大人になった。
私は図書館で見つけた本を手に取り、仕事に向かった。
その日の仕事内容は、とある会社のフロアのワックスがけだった。
作業日までにお客さんである建設会社の担当に連絡をする。
連絡の内容はこうだ。
「〇月〇日にフロアのワックスがけを行うので、床に荷物を置かないでください」
そのことを会社の従業員に周知してもらう。
そして、当日にフロアの清掃を行い、ワックスをかける。
床がピカピカになったら、建設会社である依頼先の担当者に完了の報告をする。ピカピカといっても床に髪の毛の数本は落ちる。
陰毛も落ちてるかもしれない‥‥。
誰でもできる仕事に従事する一日。これが当日の仕事内容であった。
恋愛について考える余裕も気力もない。
ここまでは、私のとある一日の流れである。
何もない平凡な一日である。
お金もないので、その日は借りた本を読んで私は寝た。
この後は取り留めのない1日の代わりに、その本に書かれていたことを記述することにしよう。
とある蔵書より
『果たして彼女は存在したのか?』
もうお分かりだと思いますが、この文章を書いているのは一介の清掃員です。
とある島の片田舎で清掃作業をやっています。
清掃作業といっても私たちの担当は特殊作業で、専門用語で剥離洗浄と呼ばれるものです。
私は、フロアを見渡し同じ仕事仲間のIさんに「今日は床に髪の毛一本もないぐらいに仕上げてみませんか」と聞いてみた。
Iさんは、「よかよ」と言って笑うだけだった。
Iさんと私は、無言で淡々と働いた。
誰もいない会社のフロアには空調の音がかすかに聞こえる。
平日は、この場所で会社員がPC作業にひっ切りなしに取り掛かっているのだろう。フロアに並べられたPCにはいくつかの付箋がつけられている。
それらの付箋には、こう書かれていた。
「床にものを置かない」「打合せ〇月〇日13時半本社会議室2」「〇月〇日フロア清掃」
私は、モップで床を掃除しながら、ふとこんな妄想をした。
キーボードをうつ女性がいる。
その人は高校を卒業し、この会社に入った。
家は裕福ではなかったので進学はあきらめたが、親は彼女が良い会社に入社できたと喜んでくれた。
初めて働いた会社で、初めての給料が入り再来週の休日にはデートの約束があるのでした。誰に言われないでもうれしかった。
今回の給料では香水は買えないけど「次回の給料で買うぞ!」と自分を奮い立たせる。
仕事中も、忘れそうな事は会社のPCに付箋を貼り「忘れない!」と意気込む。
付箋を張り付けたと思ったのだが、付箋の糊の部分が指についてきた。
付箋の裏と表を間違えて使ってしまったのだ。
指についた付箋をはがそうとすると付箋は床にひらりと落ちた。
その時、彼女は発見した。
………足元の床に誰のものともしれぬ陰毛が2本、ワックスで塗り固められていたのだ。
とあるOLの日記より
(‥‥‥)
なんだかとても悲しくなりました。会社の人に相談しようにもうまく言えません。
(お金さえあれば、お金さえあればこんな惨めな思いをしなくて済むのに)
お金のあるなし≒感情の浮き沈みとは限らないし、自分の人生に不満をもっても仕方ないのはわかっているのです。その日の帰り道、駅の構内で無料の求人情報誌に無意識のまま手が伸びます。電車でそれを読みます。
「カウンターレディ時給3000円」
「一日30000円以上の高収入案件もあり!みんなやっているから初めてでも大丈夫!」
無意識にそんなページを見ている自分に気づき、さらに落ち込みました。
その日の夜、実家から電話がありました。
酒を飲んで上機嫌らしい親父の
「おい、ちゃんと真面目にやってるか?」
の一言にわけもなくキレました。
「やってるよ!あたしは今までもちゃんとしてたでしょ!あたしが何をしたっていうのさ この甲斐性なしのくそオヤジ!」
電話を放り投げ、一晩中泣きました。
(結局、あたしはあの陰毛の会社で働くしかないんだ。香水も満足にかえない人間なんだ。初めてのデートなのに‥‥)。
デートがある週の月曜日、半場わくわく半場ゆーうつな複雑な感情を引きづるようにして出社しました。
気のせいか、いつもの職場が光り輝いているように見えました。よく見ると気のせいではありません。
床が、まるで魔法の絨毯の上に乗っかっているようにピカピカではありませんか!
もちろん、先日の陰毛など影も形もありません。
なんだかかみさまが、あたしを祝福してくれているみたいに感じました。
とある掃除員の日記より
(彼女は幸せになったのだろうか?仕事はうまくやれているだろうか?)
私はそんなことを考えます。
全ては私の妄想なわけで、いや‥
『果たして彼女は存在したのか?』
この問いに対し、私は真っ直ぐに前を見て、
「はい」
と答えます。
現実に、髪の毛一本落ちていないピカピカの床があります。
そして私は言い知れぬ満足感を得、元気になります。鼻歌まじりに元気いっぱい、私は床の掃除をしています。
穴の空いたタオルのほっかむりをした
Iさんはその傍らで
「‥あはは。」
相変わらずです。
*最後になりましたが、ここまで読んでくれたあなたのために、ここで私とIさんの正体を明かそうと思います。
この世の中は、普通人と呼ばれるわたくしたちで成り立っています。
やれアーティストだの表現者だの、そんなスカタンみたいな話はどうでもよいのです。