座敷童子概論
春先に、座敷童子をみた。
ただそれだけの事だけれども、忘れないうちに書き留めておきたい。
はじめに言わせてください。
私は、自分の目で見たものしか信じません。
話はそれるが、私は信じる信じないはどうでも良いと思っている。
例えば、空気を人が信じようがしまいが、確実に空気は存在するからだ。
「〜を信じなさい」
片腹痛い話である。
だいたい信じるとは傲慢な考えではないでしょうか。
空気からしたら
「お前が信じようがどうでもいいわい」
とならないだろうか。
それでも、上の文では「信じる」といった言葉を使わせていただいた。私は存在しようがしてまいが「ワクワクするもの」を追い求めたいからだ。
空気一つとってもワクワクする。空気を発見した人の驚きとはいかんばかりか。
それでは、私の座敷童子についての考察を書いていく。
【あとがきにかえて】
この文章を見つけてくださりありがとうございます。どうぞ、最後までよろしくお願いします。
座敷童子について、調べる中で、こんな話があったので共有します。
「座敷童子の話は、その話を聞いた人へ福をもたらすとされている。」
作者不明
この伝承が一番好きです。
恩送りといいますか、何と言いますか。
あなたによい1日がきますように
それではどうぞ
心霊現象のHz
実は、超低周波音帯のある特定の周波数が幽霊のような物を見せると論文が出された。その周波数が「18.98Hz」だと言われている。まず、人の耳で聞き取れる周波数は20Hz~20,000Hzだ。20Hz以下の周波数になると人間ではほぼ聞き取れない領域となり、これを超低周波音という。近い物で言うと、クジラの鳴き声や家庭用の電子機器なども超低周波音を出している。(マイクロ波とも呼ばれる)
この周波数がちょうど眼球と共鳴して「幽霊のような者を見せる」と言われているのだ。特に、大切な人などを無くした直後などにこのような現象が重なると見える。これは無意識から見える幻覚だとされているが、実際、大切な人を亡くした60%もの人がこういった「幽霊」を見ているという統計結果も存在している。
私がみたのは幻覚だろうか。
私は幻覚をみるなら、何か良い方向に捉えたい。
座敷童子の云われ
座敷童子をみると裕福になるという伝承にも所説ある。
昔は、いわゆる口減らしが行われた時代があった。
子供を間引くのだ。
優秀で働くことのできる子供を生かし、そうでない子供を「ごくつぶし」と呼び、捨てた。
これは人間界だけでなく野生の熊などにもみられる行為である。
「野ブドウ落とし」
とも呼ばれる。
春先に母親熊はあたりに野ブドウの実が沢山なっている場所に子熊たちを連れていく。子熊たちは夢中で野ブトウを頬張っている。その間に一頭の子熊だけを連れて母親はいなくなるのだ。
一方人間界では、裕福な家は子供を間引かず、家の中にかくまうこともあった。
精神に異常をきたした子供を、座敷牢に閉じ込めることもあっただろう。ただ村人からの目を気にしただけかもしれない。
それでもこう思った事は確実だ。
「裕福な家には座敷に童がいる。」
この事は、その時代の人からするとなんとゆとりの感じられる事だっただろうか。捨てると簡単に書くが、その行為には人の生き死にが関わっている。捨てる親もさぞ無念だったろう。子どもを捨てて何も思わない親がいてたまるか。
座敷童子をみると、幸福になるといわれる所以はここにある。
座敷童子がいなくなった家は没落するというのも、貧しい家から裕福な家へ子どもを奉公へ行かせた事の表れではなかろうか。
※「見る(学ぶ)→思う(計画を立てる)→真似をする(行動する)」
この流れは今も昔も変わらない。
ゆとりのあるものは栄え、ないものは途絶えた。ゆとりのある話は、語り継がれる。
人は良い事を聞くか見るか、想像しないとその後の展開に良い事はおこらない。簡単な話だと思う。
学者、井上円了の考察
井上円了も、日本の妖怪等の伝承を分析し結論をだした。彼の出した答えは「妖怪はいない」だ。
彼は明治の頃、日本の近代化を進めたうちの一人である。
思想や宗教を哲学として学問体系化しようとした彼は、不思議な事を解明しようとした。
彼は『妖怪学』『妖怪学講義』などでそれぞれの妖怪についての考察を深め、当時の科学では解明できない妖怪を「真怪」、自然現象によって実際に発生する妖怪を「仮怪」、誤認や恐怖感など心理的要因によって生まれてくる妖怪を「誤怪」、人が人為的に引き起こした妖怪を「偽怪」と分類し、例えば仮怪を研究することは自然科学を解明することであると考え、妖怪研究は人類の科学の発展に寄与するものという考えに至った。
西洋から持ち込まれたコックリさん(欧米ではテーブルターニング)をも含み不思議な事を妖怪と呼び、その解明に努めたのだ。柳田國男と「妖怪」について妖怪の擁護or撲滅をめぐる仁義なき戦いも行われたが、円了の意見は変わらなかった。
妖怪がいないとなれば、私がみたのはなに?
もし、妖怪がいないとすると忘れ物をした時に、妖怪のせいにできないではないか。大変だ。
当時の私の記憶
私は、座敷童子をみた。
とある座敷に、友人と宿泊した時の事だった。
泊まらせていただいた12畳の部屋は、立派な床柱(?)があり、大黒柱かと思うほどであった。幅は30cmほどはあったかと思う。
床の間なので掛け軸がありそうなものだが、掛け軸には目が行かずに、柱の立派さに見惚れていた。
歴史のある家に泊まれて嬉しいなと敷布団に入った。
私が眠っている時にふと目を覚ますと、誰かが布団の近くにいる。
友人ではないみたいだった。
その誰かは、浅蘇芳色※の着物を身につけている。目を凝らすと、黒い髪をした子どもが床間に座ってた。
後ろ姿だったので、男か女の子なのかはわからない。
床の間は私の足元にあり、そこでコンセントのケーブルをいじくって遊んでいた。
私は寝ぼけてたから、「早起きだなぁ」と思いながらもう一度寝た。
目が覚めると、その事は薄ぼんやりと忘れており、気にも止めていなかった。
「おはよう」
友人と挨拶を交わす。
朝食をいただいていると、友人が不思議な事を言い始めた。
「昨日の夜中 廊下を足音が駆けてったんだよね 座敷童子かとおもって」
「でさ 追いかけに行ったんだよ 捕まえられなかったけど!」
近づいては遠ざかり、音は響き渡る感じだった(?)らしい。
(夜中になにをやっとるんじゃ)
私はその時にハッとした。
ふと、昨日見たはずの床の間を思い出し向かった。
床の間の上の方には、赤い着物をめした3人の座敷童子の絵が飾られていた。
平屋に、12畳間が8部屋以上あるであろう古民家での体験である。
結論
私は、座敷童子をみた。
思い出した時、少し怖かった。
そして、座敷童子について調べて学んだ。
見間違いでもいい。
たとい誤怪であってもよいではないか。
座敷わらしは、いた方がよい。
なぜならば、ワクワクするから。
ワクワクするか、しないかの2択であったらワクワクして生きた方がよい。
例え失敗しても、
「きっと今日も、思い返せば良い日になる」
これでいいのだ!
※浅蘇芳色は写真の桜に少し茶色がかった色です。写真は、古民家の門の裏手に生えていた桜です。
この古民家は東海道から少し離れた所にあります。
この家は、宿泊業を営んでいるわけではないので、詳細な記述は控えさせていただきます。
参考文献
『妖怪学講義』井上円了
『遠野物語』柳田國男
『A Ghost in the Machine』Richard T Scheife
『ふしぎな記録』浅見宗平
『雨月物語』上田秋成
情報提供
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
日本古典文学摘集(https://www.koten.net/tono/)
コトバンク(https://kotobank.jp/)