【ドネシア社長物語①】内気な青年、上京して大学生活満喫するも、22歳でバブル崩壊。
茨城県ひたちなか市。
タコやイカをはじめとする水産物加工業が盛んな海辺の町である。
25歳。
私は日本で初めてインドネシア産タコの本格輸入や、
製品化に成功した水産物加工会社に在籍していた。
時を経て20年後、インドネシアで起業することになるが、
当時はもちろんそのようなことは予想だにもしていなかった。
時はさかのぼり、私は19歳で上京した。
高校までは茨城県ひたちなか市の育ちであったが、
東京の大学生活に憧れ、
1年浪人して法政大学に入学した。
それまでは内気な性格で見知らぬ人には声もかけられない地味な生活を送っていたが、東京での毎日の刺激のある生活が内気な性格をも変えてしまった。
大学の先輩には可愛がってもらい、
勉強よりもサークル活動やアルバイトを優先した大学生活を満喫していた矢先、ちょうど大学3年の時にバブル崩壊が起こった。
先輩方が、就職活動で一流会社の内定をいくつももらっていたが、
私の代ではそうはいかなくなった。
急に就職氷河期となり、東京での就職活動は困難となった。
毎日アルバイトに明け暮れる生活だったおかげで成績が振るわず、
留年も経験した。
なんとか両親に頼み込み大学生活を1年伸ばしたのだが、
このハンデは取り返しがつかなかった。
それに加えて、バブル崩壊もより深刻となり経済不況に陥った。
大学では経済学を専攻し、流通業界に就職したいと考えた。
アルバイトも日本橋の老舗百貨店でギフトの包装など季節要員で働き、
流通の真の姿を観察していた。
ただバブル崩壊の流れは、
流通業界にも大きく影響を及ぼし、
その年の採用数はわずかで、
私も見事不採用に終わった。
「東京での就職活動は難しい、
いっそ茨城に戻り故郷で両親と一緒に住んで働こう」
と決心しUターン就職した先が、
地元のスーパーマーケットであった。
たまたま、
茨城に本社があるスーパーマーケットは、
東京の大学を卒業しているという学歴だけで採用してもらった。
同じ流通業界でも百貨店とは大きく違う、中小スーパーマーケットでの試練が始まった。
当時、そのスーパーマーケットでも一番売上の高い店舗に配属となった。
自分以外の同期は全て高卒であり、
大卒キャリアを期待して優遇してくれたのだろう。
グロサリー部門に配属となり、
店は朝6時頃からトラックで配送された商品を並べることからスタートする。
日配品と呼ばれる、牛乳、納豆、豆腐などのチルド商品は、
なるべく鮮度が良いものを並べることが、お客に信頼されて売上に直結する。
毎日、週ごと、曜日毎に販売数をチェックし、
適正な数量の発注をしないと翌日大量に余らせ、足りないと欠品を起こす。
お客は正直で、
日付が新しい商品を奥から選んで取っていくため、
お店の評判を決めるのは日付が新しい商品をいつも並べておくことである。
どれくらい発注するかをPOSデータ(お店の売上数量)とにらめっこしながら発注と販売数を適正化していくと、メキメキと売上があがった。
繁盛店になっていった結果、メーカー応援もよく来てくれて、
一緒に販促活動をさせてもらったりもした。
一店員だが通常バイヤーが行うバイイングもさせてもらい、
メーカーから特値を出してもらい利益もあげた。
2年が過ぎた頃、
店長から責任のある仕事もさせてもらい、
やりがいも感じ始めていた。
そんな中、
開店から閉店まで仕事をしたおかげで疲れが蓄積し体に異常が出てきた。
長く続けられる仕事ではないなと思った矢先、
あるプロモーション会社から一緒に販促をしないかと誘われて、
3年働いたスーパーマーケットを退職することになった。
派遣先はスーパーにも出入りする大手調味料メーカーでの販促活動をする予定であったが、
業績悪化もあり、すぐに話が無かったことになった。
途方にくれていたところ、
たまたま地元でその大手調味料メーカーと取引があったタコ屋の
水産会社に販促担当で派遣されることになった。
元々半年契約での話であったが、
2ヶ月間の働き振りを見てくれ、
3ヶ月目で正社員としてもらった。
それまでタコはそれほど好きではなかったが、
目の前の仕事に一心不乱に取り組むうちに、
だんだんタコの魅力に取り憑かれていった。
第2章へ続く。