自我を出し得の場所
こんにちは
E:くじけぬこころです
最近めっきり寒くなりましたね
この寒いんだか寒くないんだかの時期に見れる服装を試行錯誤してる町の人々が好きです。
オタクアカウントの話
最近X(旧Twitter)に新しくアカウントを作りました
そのアカウントは以前より憧れはあっても自身の自我の強さをおそれて(または言い訳として)敬遠していた所謂「推し活」をするためのアカウントであり、今はもっぱらインターネット上の推し(最近はVtuberにお熱)のポストに返信を送ったり、エゴサ用タグと呼ばれるものを使ってコンテンツの感想を書いたりするのに使われています。
今日はそのアカウントについて
というか何故それを作ったかみたいな話をできればいいな
まず先にも書きましたが、私はコミュニケーションにおける自身の自我を恐れています。
主観でしか物事の説明が出来ないというか、何かを伝えようと言葉を繰り出す時にどうしてもその事柄について「自分がその時こう感じた」というエピソードを盛り込まずにはいられないのです。
挙動としては自語りおじさんの亜種だと思っていて、言葉がどう足掻いても冗長的になる上に、相手にとって聞きたくもないノイズの情報も入ってしまいます。
(noteにおいてはその才能を競うかのような文章に沢山出会えるので自分の価値観の狭さを思い知らされてる)
そんなふるまいをしてしまった結果、相手に不快な思いをさせてしまうんじゃないか、嫌われてしまうんじゃないかと考えると恐ろしくなってしまい、SNSでのコミュニケーションに苦手意識がありました。
ですが人間と言うのは不思議なもので、その「自我」を上手く発信したいという欲求も同時にあるのです。
そういった意味でVtuberのファン活という空間は救いでした
私にとってこの取り組みは自我の坩堝と呼べるようなものですが、同時にコミュニティに長くいればいるほどその自我こそ切望されている場でもあるという事も、なんとなくですが伝わってきたのです(もちろん程度やTPOはあるとはいえ)
であるならば
嫌遠する自我が、何かの創作の一助になる可能性があるとしたら、それはかなり最高だなと。
そんな思い付きでアカウントを作って、今はあーだこーだと書いては消す日々です。
気分的にはブレーキを壊して走り出している様な感じで、おそらくそれなりの人にやや迷惑を掛けつつ進んでいるのだけが心苦しいですが、やや迷惑程度に収めれるように努力は惜しまず書いたり消したりしていこうと思っています。
ホントは所謂推し活アカウントを使い始めて実感したSNS上におけるオタクしぐさへの尊敬、みたいな話もしたかったのですが今日は燃料切れ。
またいつかそんな話ができる元気がまた沸いた時に続きを話したいな
いつかオチがちゃんとついた話が出来るようになりたいぜ
画像は初めてタグをつけて投稿したファンアート(https://twitter.com/HAGI_HARU)
バギハルはいいぞ
何かをするのは、どうやら楽しい。
しゆ
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