善と偽善の境界線
最近、映画化されて話題になっている辻村美月著『傲慢と善良』を読み、「善」について改めて考える機会があったので、ぼくの考えを残しておこう。
結論から言うとぼくの意見としては、この世に純粋な善など存在しない。
善は偽善で、偽善は善なんだ。
堂々とタイトルにしておいて何なのだが、善と偽善の間に境界線は存在しないと思っている。
善と偽善とは
前提として善悪は極めて主観的なものであり、その判断は各人の正義感に委ねられている。だが今回のテーマは善と偽善についてなので、行為そのものの善悪を争うのは別の機会にしたい。
ここでの善行の定義は、他者(物を含む)の幸福のために供する行為としよう。そこに良心以外の目的があってはならない。一旦はそういうことにしておこう。
一方、「偽善」のレッテルを貼られるのは、あからさまに見返りを求めていたり、その善行による副次的な報酬に期待していた場合であろう。よくある例では、芸能人が売名のために慈善事業に寄付をする、などだ。疑いなく善い行いをしているのに、その裏にある心理が見え透くと、(それが真実でなかったとしても)偽善と見なされ、時に軽蔑の目を向けられることもある。
ぼくは学生時代に「Kuya Omurice」プロジェクトという、フィリピンの貧困層の子どもたちを支援するプロジェクトを行っていたのだが(詳しくは別の機会に話したい)、知名度を得るための偽善行為だと、ネット上の匿名のコメントで罵られたことがある。結果だけを見ると、偶然メディアに取り上げられたために少なからず知名度を獲得し、その後の様々な活動に繋がったことは事実だ。もちろんこの展開を予測していなかったし、ましてや期待していたわけではなかった。
善と偽善の境界線
ではその他の善行は完全な「善」なのだろうか。
先ほど、純粋な善は存在しないと言ったのは、人間が完全な利他心を持つことは不可能だと信じているからだ。
ぼくを含め人の善行には、たとえそれが明らかな見返りを求めていなくとも、少なからず利己的な考えが潜んでいる。
実際、ぼくは先日夜中に偶然財布を拾って、徒歩で往復20分の交番まで届けに行った。拾い主の連絡先を登録しておけば、持ち主が現れなかった場合に所有権は移るし、現れた場合でも報奨金がもらえる可能性があるが、全ての権利を放棄して預けてきた。
これは純粋な善行だろうか?
もちろん善行には間違いないし、偽善だと言われる筋合いはどこにもない。
だが純粋な良心かと聞かれると、はい、とは答えられない。
そこで気づいたのだが、ぼくは自分の誇りのために善行を行っていたのだ。
別に財布を落とした顔も知らない間抜けなおじさんを喜ばせても何の得にもならないし、ましてや連絡先を残してないので感謝されることもなく、そもそもおじさんが財布を受け取ったのかもわからない。
ぼくは自己満足したかっただけなんだ。
知らない人の幸せを願って行動できる自分が好きだし、少しでもこの世界に良い影響を与えている存在だと再確認できて嬉しいんだと思う。
そう考えるとKuya Omuriceプロジェクトも子どもたちに向けた100%純粋な良心ではなく、自分がしたことで子どもたちが笑顔になって、その笑顔を見て結局は自分が幸せになりたかったんだ。
そして自分が生きている価値を実感したかったんだと思う。
第三者から善行を強制されている場合を除いて、そもそもその善行を行動に起こすには何らかの理由や動機があるはずで、それを突き詰めると全ての行為の目的は、最終的に自身の利益に帰結する。
全ての善は同時に偽善でもあるのだ。
やらない善よりやる偽善
みんなはこの言葉を聞いたことがあるだろうか。
ぼくは結構好きな言葉だった。
だが今となっては思う。
やらない善は善とは呼ばないし、やった偽善は善へと成り変わる。
善というものは結果主義で、その行為が人を幸せにしたのなら、他に目的があろうとなかろうとそれは善だ。
芸能人が売名目的で寄付をしようが、実際にそれで助かった人は存在するのだから。
たとえそういった目的がなくとも、そもそもあなたがやりたくてやったのだから、多少なりとも自己満足という利己心が紛れ込んでいるはずだ。
それで良いじゃないか。というかそれって最高じゃないか。
自分がしたことで人がハッピーになって、自分もハッピーなんだから。
ということでとても頭の悪そうな締め方になってしまったが、この場でぼくなりの常套句を書き残して終わりにしよう。
やらなきゃ偽善、やれば善
ではまた。
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