日本人商社員とのほろ苦い思い出
はじめてミンダナオ島南部の街パガディアンシティ(Pagadian City)に行ったのは2003年か4年くらいだったと思う。。
パガディアンはサンボアンガ南部州(Zamboanga Del Sur)の州都で、サンボアンガ市を含む。サンボアンガ市の方が何かと有名だけれど、州都はパガディアンだ。
急な坂道が港(海)へと通じる地形で農業と漁業が盛ん、観光はフィリピン国内向けにはそこそこアピールしているみたいだが、パラワンやボラカイ、バギオなど海外でも知名度を獲得している地域とは比べるまでもない、典型的な小規模地方都市だ。
外国人が観光客としてほとんど訪れることのない街なので多分日本人を見るのが珍しかったのだろうか、僕がお邪魔した家には近所の人がたくさん集まってきた。
その中に50代と思しき女の人がいた。小太りで気のいいオバチャンだった。
その人がこんな話をしてくれた。
年齢から察するに、戦後30年以上経過している頃の話と思うが、彼女のご両親と近所の人は当時まだ戦争による反日感情が強く、とても説得できる雰囲気ではなかったらしい。
と、遠い昔を懐かしみ、ほんのちょっとの笑顔と目の奥に僅かに寂しそうな表情を浮かべながら話してくれた。
そんな表情から察するに、彼女と日本人の商社員との恋は、若い頃の叶わなかった恋のほろ苦い思い出の一つになっているように思う。
恋なんてそうそう思った通りに叶うものじゃない。
いろんな事情やいろんな偶然が重なって上手くいったりいかなかったり。
彼女が親に反対されたことも、ひょっとしたらそんないろんな事情・いろんな偶然の一つとして、子供の頃に転んでできた擦り傷みたいに彼女の心の中でだんだん薄くなっていっているのかも。
毎年8月上旬から半ばになると戦争のことでいろんな記事を読む。
直接経験したり、近しい親族から聞かされた記事はどれも目を背けたくなるような悲しみに満ちた思い出ばかりだ。
レイテ島やマニラでも、いっぱい話を聞いた。
どれも、日本での大きな空襲で苦しんだ話とリンクする壮絶なものばかりだけれど、国内の主だった地域が激戦地となったフィリピンに行くと日本とはまた違った戦争の側面を知ることにもなる。
誰もが戦争の悲惨さに思いを馳せるこの時期、真っ先に僕の頭に浮かぶのはパガディアンでオバチャンから聞いたほろ苦い恋の思い出だ。
センセーショナルで悲惨さに満ちた話ではない(少なくとも僕が聞いた範囲では)けれど、いつもこの季節になると思い出す。
太平洋戦争中、パガディアンシティは大きな戦闘が行われなかったようだ。
けれどもそんな地域で戦後に生まれ育った少女の心にも戦争はあるんだな。
20年前のパガディアン行きは、戦争は人々に悲しい思い出しか残さないんだな、ということを改めて感じたひとときだった。
坂の街パガディアン・シティ。
丘の中腹からダウンタウンにある市場まで下る道すがら、バイクの後ろからスマホで撮った市内の目抜き通り。
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