生きているだけで偉いとかいう嘘

ここ最近、悪い意味で資本主義が加速してるなぁとか思ったり思わなかったりします。わかりやすい例が「推し活」とかいう概念で、グッズ全部買うとか、イベント全通するとか、ガチャ何連回すとか、どう考えても自らの選択じゃなくて、資本によって「させられてる」のに、自らの意思でそうしてるって勘違いしてて、それによってどのような幸福を得ようとしてるのかまったくわからん。オリシャンとかの文化もそうか。

なんとなくやけどこの原因はわかってて、人生で「推し」っていうような存在を持ったことがないのが大きな要因。このスポーツ選手のこのプレーが好き、とかそういう規模のやつはあったけど、少なくともそれなりに大人になりかけてから、この存在者が幸せそうやからとか成功してるからとかで自らの幸せを推し量ったことはない。

資本主義もそうなんやけど、おそらく結構な数の人が、悪い価値論みたいなものを信用してて、だからあんまり社会的な道徳的価値観を信用しやんようになってしまった。世の中には不思議といろんな価値判断がキメラ的に並立しまくってて、たとえば
・年収が高い人は成功している
・人の美醜は単にそれだけで価値である
・週5働いてるサラリーマンが最も普遍で安心な働き方である
とかいろいろ。

「かわいいは作れる」とか、「かわいい」ことを価値があることっていろんな人が考えてるから効果のあるコピーになってるだけ。って考えたことない?

つまりなぜか人は「自らに価値がある」ことを、自らの社会的状況の正しさから推論しようとしてて、それは結局のところ、「自らに生きる価値がある・高い」ことをわざわざ説明しやんと不安になるように仕向けられてるからなんかもしれん。正直なところ結構不思議。役に立つことそのものに価値があるのかって考えたほうがいい。芸術は心を豊かにするから価値があるとかも一緒。本来は、そもそも芸術もビジネスも「価値」って呼ばれてるものはほんまに価値なのかって考えたほうがいい。

逆に、これは完全に逆に、その社会的・規範的価値観から逃れたくて、ただそのくせして「自らに生きる価値がある」って信じたい人が、「生きてるだけで偉い」とか多分言いだすねん。でも既存の概念を壊したかのように見えてまったく壊してないから、実質何も言ってないのと同じ。

そんなわけでこの資本主義とか価値とかの考え方が苦手。正確に言うとビジネスの場面では使いつつ、それを人間の存在には使ったらあかん。

じゃあ逆にどう考えたらって思うかもしらんけど、答えはシンプルで、どうせ全員生きる意味とか価値の順位とかそんなもんあらへんって考えるべきやと思ってる。この世に個人以上の本質的な集団的「生きる価値」なんてもんはなくて、全員生きる価値がない。100%代わりは効く。どっかの国の国家元首も、農家のおじいちゃんおばあちゃんも、バリキャリも、ニートも、全員おらんくてもいい。代わりは効く。もちろん自分自身もおらんくてもいいし、忘れられることは希望だよって言い続けてるのはそういうこと。

つまり「生きてるだけで偉い」じゃなくて、「生きてるとかどうでもいい」ってこと。社会的な成功じゃなくて、偶然生まれてなんかわからんけど生きてるんやからとりあえず生きてみるってこと。

それをできるようになって、だいぶ楽になったし、試してみるの結構オススメです。やらなあかんわけちゃうけど。

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