20240818日記:別に日本語やからってわけじゃなくてさ

いろんな事情が重なって、最近ポエトリーリーディングを知らない人の前でポエトリーリーディングをすることが増えてきました。たまーに不可思議/wonderboyとか詩のボクシングあたりを知ってるかなぁぐらい。そんな方々の前で。異文化交流。ありがたい。

僕はその時間を「出稽古」と呼んでいて、今後どちらかというと異物としてライブイベントに紛れ込んでいきたいなぁなんて思ってるわけですが、やっぱり変なところで誤解を持たれることがあるというか、そういう部分があって、少々悩ましかったりもします。

たとえばこういう活動をしていると言うと、「日本語の美しさが…」と言う方々がいます。最近急激にお会いする頻度が増えた気がする。なんでやろ。どうも一般的には日本語というものは美しい響きを持っている、らしいですね。あんまりよくわからないですが。というか、比較するほど外国語を知らないわけですが。

正直、詩を語ることにおいて、「日本語の美しさ」のような何かを重視して作ったことがないので、残念ながら共感できない価値観だったりします。というか、ある一部分については豊かな表現力を持ちつつ、ある一方ではヨーロッパの言語の方が語彙や表現方法が多い。知らんけど。これは大阪の言葉の適当さ。

具体的には、西洋の言葉では「神様」を使った表現が豊か、な気がする。そんなとこに神様いてはるんや、みたいなとこに結構いてたりするし。神様が助けてくれるとか救ってくれるっていう考え方を自明視できる文化では、ここまで神様を使って語ることができるのか、っておもしろい。

そうじゃなくても外国の言葉は結構おもしろくて、たとえば日本語と印欧諸語ではリズムが違う。スタッカートの効いた言葉の発音をできるのは印欧諸語側。舌の使い方が違うっぽい。他にもうっすらと大学で習った範囲やと、ドイツ語のウムラウトとか、トルコ語の母音調和とか、これはこれでおもしろくて、概念として勉強になったりする。

だから別にポエトリーリーディングで日本語の美しさを使ってるかと言われるとそうじゃないし、日本語特有の文化ではそもそもない。ビートニクとかよく名前だけは聞くし。全然知らんけど。勉強しような。

てかこういう俗説ってどういうところで広まるんやろね。学校で日本語は美しいって習った記憶なんかないし、テレビやったりする?10年ぐらいほとんど観てないからようわからん。

未知の言語は「未知である」っていう一点だけで新しい発見があって、一方で母語の美しさは、故郷への愛と同じように、おそらく相対評価じゃなくて絶対評価。たとえば僕は大阪の方言を使ってて、それが楽やと思って生きてきてるけど、他の地域に行ってその土地の日常会話に耳を澄ますと、方言が全然聞こえてこやんかったりするから、いわゆる標準語は予想以上に日本人にとって絶対評価の対象で、僕にとっての大阪弁と同義らしい。逆に僕にとっての標準語は相対評価の対象で、だからこそその人の故郷の言葉を聞きたかったりもする。というか、大阪弁と標準語のバイリンガルにすらなれない人生も今年で26年目。両方喋れて英語も喋れたらそれだけでトリリンガルになれるのに。

おそらくどんな言語にも美しい表現と、同時に汚い表現はあって、言語の美しさは、それぞれに出会ってるか・知ってるかだけの問題なんやと思う。「アニメ」や「マンガ」(カタコトで読んでほしいやつ)で日本語に触れたらセリフっぽくなるし、大阪で日本語を覚えたら大阪弁になるわけで。おそらく後者は、日本語を標準語で日本語を学んだ人よりノリの良い言語やと思うんちゃうかっていう勝手な想像。根暗な関西人(自分自身含め)に配慮しろ。

だからって別に誰かにもっと勉強しなさいって言うわけじゃなくて、どっちかというともうちょっとそんな普通っぽいこと言わんと遊ぼうや、ぐらいなんですけどね。知らんけど。

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