東大授業料値上げに反対する

東大の授業料が年間50万とするとの報道があった。これに対して在日朝鮮人の学校の先生がテレビの談話で言った。
「東大の授業料は50万どころか、200万でも東大入学希望者は来るでしょう」
何を言っているのか私には理解が苦しむ。さらにおかしなことも言う。
「学校の先生の私が、東京に行くとき、どうしてグリーン車に乗れないのですか。おかしい、おかしい」としきりにぼやいている。

私は常識を疑った。朝鮮と日本では文化や経済が異なるのであろうか。学校の先生が新幹線に乗れるだけでもありがたいと思わねばならない。ましてやグリーン車とは論外である。
私も医師として東京の学会や地方の学会に参加するときは、いつも新幹線の普通席であった。公務員で医師である私でさえ、新幹線の普通車であった。ましてや、ただの私立の学校の先生がどうして新幹線のグリーン席に乗れるのであろうか。まさに異次元の先生であるとしか思えない。

日本の大学には様々な大学がある。私の大学入学時代、国立一期、国立二期と分かれていた。日本の近代科学は医学より始まったといって良いであろう。国立一期とは旧帝大、旧医科大学をその起源としている。国立二期とは旧師範学校をその起源としている。勿論、田中角栄内閣の時代,一県一医大と言う名目で、全国のすべての県に医学部が設置された。さらにその下に私立学校がある。
私は地方の医学部の出身である。もう50年くらいになるであろうか。国立大学の授業料は当時、学部に関係なく月千円であった。入学金は1万二千円であった。月千円の授業料で、奨学金は月、1万円以上貰っていた。授業料だけなら、ある意味では無料であったと言えよう。いや、おつりが来たと言えよう。

私は頭はそこそこである。とても優秀からは程遠い。私は駄菓子屋の息子である。当然貧乏であった。現役の時、受験に失敗し、浪人して浪人生活がいやであった。どこの大学でももぐりこみたかった。何とか両親が面倒を看てくれるであろうと言う甘い思いから、私立の医学部は授業料がとてつもなく高額で、やむなく早稲田、慶応、明治の工学部を受験した。それらのそこそこ大学は受験に合格したことは当然である。そして授業料が安い、そこそこの地方の医学部に入学した。

私はそこそこ大学の出身者である。そして私の同級生で東大に行った人も多い。勿論、京大に行った人もいる。しかし、明らかに東大に行った同級生は優秀であり、そこそこ大学の私とは根底的に能力が違うのである。勿論、東大に行った同級生が全てが優秀とは限らない。しかし、東大入学者の中には明らかに天才が居るのである。これは歴然とした事実である。これを認めないと、朝鮮人の学校の先生と同じ考えとなる。

日本国憲法の日本人は皆平等であるとう高貴な考えを誤解してはいけない。権利としては皆平等であると言う意味である。
東京大学こそ日本人の英知の結集である。彼らこそ日本の指導者となるべきである。このことを証明したのは、岸田、石破のそこそこ内閣である。二人ともその経歴は知らない。しかし、間違いなく言えるのは、そこそこの頭で、そこそこの金持ちであると言うことである。絶対に東大に入学する能力は持っていなかったと断言できる。

ではどうして日本の科学技術が途上国並みになったのであろうか。
この理由を解明したいと私は念じている。この理由は複雑で、これを解明することは現在の私のそこそこの頭では不可能である。
しかし、医学と言う限られた、そのまた一部では理解できる。
日本の知能が結集した東大医学部が、かつては私たち地方大学の医学部の学生が「東大の馬鹿」と揶揄していたのである。そして、学生同士で話し合った。
「あの優秀な東大の学生がどうして馬鹿になったのだろう」
これも話題の一つであった。しかし、思いもかけないところからヒントは生まれた。これこそ私の地方大学の先生が発した言葉である。
「東大はいいな。彼らは蚤のチンポを見つけても大学の教授になれる。私たち地方大学では、大学の教授になろうとすると多大な学問的業績が必要である。東大はいいな、東大はいいな」

そして優秀な東大生は官僚になることを志した。これこそ日本国家社会主義の起源の一つである。勿論、戦前では陸軍大学、陸軍兵学校、海軍大学、海軍兵学校であったが、原則は同じである。

医学は封建的である。いや封建的であったと言うのが正確であろう。そして山崎豊子氏の「白い巨塔」が生れた。具体的に言うと、医学にはジッツと言う概念がある。ジッツとは日本語に変換すると「系列大学」である。その頂点は東京大学医学部にある。ジッツとなった病院は東大の傘下に置かれる。優秀ならどこの大学でも招聘されるであろう。しかし、ジッツとなった大学では推薦された医師が馬鹿でもチョンでも受け入れざるを得ない。この頂点に立つのが東京大学医学部である。これが崩壊したのである。ある人は病院での勤務を求め、またある人は開業医を求めたのである。かつての大学教授は、その絶対的な権力を失ったのである。
これは大学により異なる。また学部によりも異なる。かつての大学教授は、単に学校の先生となったのである。

そして民主革命は行政にも及んだ。東大出身、官僚、である。しかし、官僚にも人数制限がある。だれでも官僚のトップに登れるわけでは無い。その落ちこぼれ者を救うのが県知事である。有名な岡山県知事もその一人である。

その本家本元である官僚も、現在の東大の一番の目的ではないようだ。いや単調労働である官僚を希望しなくなったのである。
現在の優秀な東大生は起業することが流行のようだ。彼らの代表がホリエモンであろう。そしてぼんくらな東大生は止む無く官僚や、岡山県知事となるのであろう。

東大生は東大生であるという学歴のみで優秀なのではない。彼らはたぐいまれなる知能を持っているのである。彼らの知能は、斜陽国である日本を救う可能性がある。

人間は平等ではない。平等である権利を持っているだけである。大学も平等ではない。国立大学、私立大学、みな同じではないのである。特に東大は日本の英知の結集である。東大は無料でも構わない。国立大学も無料でも構わない。とにかく大学出という称号が欲しい人は、多大な出費、学費を支払い、私立に行けば良いだけである。

そこそこ金持ちで裕次郎や加山雄三に憧れている人は慶応に行けば良い。政治家になりたいそこそこの頭の人は早稲田に行けば良い。私の父はラガーマンであった。ラガーマンに憧れる人は明治に行けば良い。家系を重んじる人は学習院に行けば良い。国際社会に憧れる人は国際基督教大学に行けば良い。これこそが大学の多様化である。

これを間違うと朝鮮人の評論家のようになる。

国立大学は授業料無料化にするべきである。特に東大は授業料無料化するべきである。そして国立大学医学部も無料化するべきである。
金持ちかどうかで、医学部に行けるかどうかを判断するべきではない。普通のサラリーマンでも医者になる道を開くべきである。これこそ学部に関わらす国立大学の無料化に他ならない。そして裕次郎、加山雄三に憧れるお金持ちである。お金に不自由していないのである。単なるステータスシンボルとして慶応大学に入学しただけなのである。別にこれが悪いことであるとは言わない。しかし、庶民ではとても慶応大学に入学できないであろう。だからエリートなのである。

私は日本に金持ち大学があってもかまわないと思う。その典型が医学部である。とても庶民では私立大学の医学部での生活は出来ないであろう。
金持ち大学があってもかまわない。しかし、庶民でも入れる国立大学を復活するのが日本の採るべき道であると思う。

朝鮮人の評論家が言うように、「東京大学の授業料が500万でも安すぎる。2000万でも入学者は来るであろう」という発想に私は猛反対する。

東京大学無料化、さらには国立大学医学部の無料化、さらには国立大学の無料化を私は叫びたい。そして私立に対しては自由に授業料を決めればいい。


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