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歌詞を考える 『修羅を行く』 ASKA

昨年開催されたライブ、billboard classics ASKA premium ensemble concert -higher ground-。

そこでこの「修羅を行く」は演奏されました。

ストリングスのスリリングな音色が、ヒリつくように会場を包んでいたのを今でも思い出します。

すごく、カッコいい歌。

なんでこんなにカッコいいんだろうって思って歌詞を読み返すと、そこに込められた並々ならぬ覚悟のようなものを感じるからかもしれないという想いに行き着くのです。

この歌詞を考えるにあたり、どう切り込むべきか。

なんてことを感じつつ歌詞を読み始めると、

黄金来る黄昏を 忙しなく鳥が飛ぶ
うら寂しい人の波に 飲まれては夢が廃る
華やかな場所にだけ咲く光

という歌詞が飛び込んでくる。

不思議なもので、この3行でいろんなものが浮かんできてしまう。

黄昏ということは夕刻ですよね、仕事を終えて帰路につく気だるい人々、疲れ切った人々。そこに夢は輝きを失って見える。
光は都会のビルが灯すばかりで、その強烈な光に夢の輝きも相殺されてしまっているような。
そんな情景が連鎖的に浮かびました。

生きる事にも窒息しそうな世の中のことを歌詞にまとめたのかな?と感じたのですが、この曲のテーマがタイトル通り「修羅を行く」と受け止めるならば、その当時のASKAの心情を景色に重ね合わせてみたのかなと感じます。

偉そうな言葉にゃ温度がない 戦車な勇気で修羅を行く
疑えば疑うほど 未来ってヤツは消えちまう
紛れ込む 滑り込む 危険で

当時のASKAの背景を考えると、チャゲアスを解散するかどうか悩み苦心していた時期かと思います。

先日更新した「憲兵も王様もいない城」にある通り、最終的に城を出ることを決めるASKAですが、いろんな言葉を投げかけられたのでしょう。
そこに、ASKAを思っての言葉とそうでないものとはもちろんあるわけで、その言葉の温度はやはり感じ取っていたと思います。

では、「戦車な勇気で修羅を行く」とはどういうことなのか?

なんとなく、「すべてをなぎ倒していく」というようなイメージを持つ歌詞なのですが、何をなぎ倒していくのか?

僕はその次に来る歌詞のことだと考えています。
それは「疑う」ということ。

ASKAの復帰後、よく目にするのは「だってそうなるんだ」という言葉。
自身の信じたものを信じぬいている言葉。

僕も少なからず言霊というものを信じていたりして、やはり言葉にすることでその引力に引っ張られるように結果が結びつくことも多いと感じています。

それでも人間です。疑う心だってありますし、ひょっとすると弱気な時は疑う事しか浮かばないかもしれない。
そういった弱い気持ちを「戦車な勇気」でなぎ倒していっているのかな?
そんな風に受け取っています。
己が信じた道を進むには、危険を排除せねばなりませんから。

そしてサビに入るのですが、ASKAの本心の吐露のような歌詞がつづられます。

だから今はそばで だから今日はそばで
僕を抱きしめてくれ
ガーゼの吐息 淡い吐息 吹きかけてくれ
黙って身体を 黙って心を ただ今は今日は

好き好んで修羅を行きたがる人なんていないですよね。
この覚悟には心の摩耗もセットなのでしょう。
だからこそ、突き進む僕を抱きしめてほしいという気持ちだって生まれます。

ガーゼの吐息、淡い吐息、ひりついた心には触れる事さえ痛みにつながるのかもしれません。

こんな弱さをうちに抱えながら、覚悟を持って、ASKAはハンサムな道をハンサムに歩こうとしているわけです。

優しい気持ちで祈っても 天から刃が刺してくる
組み立てても壊されても 繰り返すことが満足と言う
試されて 苦しんで 微笑んで

2番の出だし、ここは僕は「PRIDE」を思い浮かべるんです。

「思うようにはいかないもんだな」って。

気持ちとは裏腹に期待を裏切られることもある、受け止めなくてはいけない無常というものもある。
そんな気持ちが歌とともに迫ってきます。

いま改めて歌詞を読み返すと、

繰り返すことが満足と言う

ここは絶対、「繰り返すこと」に納得してないですよね。繰り返すのは組み立てることと壊すことだと前の歌詞から読み取れます。
これをチャゲアスというグループのことと置き換えてみると、だから離れざるを得なかったのかなという想いにもなります。

いや、わかんないけど。そう感じてしまった。


歌詞を読んでいって感じるのは、表向きの強さを装った自分と、それに伴って心を摩耗する内なる自分との葛藤のようなものです。
なんかASKAという人物の人間的な部分が色濃く出ているような印象ですね。

マイナーロックだななんて思っていたけど、これはひょっとするとブルースなのかもしれない。

修羅という言葉を調べると、『醜い争いや果てしのない闘い、また激しい感情のあらわれなどのたとえ』という解説が出てきます。

この歌がどこか息詰まる緊張感をはらんでいるのは、口先だけではない覚悟の表明だからなのかもしれません。


この歌のタイトルは

「抱きしめてくれ」でもなく

「ガーゼの吐息」でもなく

「修羅を行く」なのです。

ひょっとすると表も裏も包み隠さず表現したこの歌を最終的に「修羅を行く」としたのはそれが一番伝えたかったことだからなのかもしれません。

そんな風に、読み解いてみたのですが、この曲を歌った後に「どうしたの?」だもんな。ズルいわw


あくまで個人的な見解です。
似たような感想の方もいれば、まったく違う感想の方もいると思います。
でも僕はそれがASKAの曲の真骨頂だと思っています。
いろんな人の人生に重なっていくことができる、だからASKAの歌は響くんだと思います。
辞められない理由がここにありますね。

今日はこのへんで。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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