リバプールサウンドの子
リバプール・サウンドとの出会いは衝撃的だった。今をさかのぼること約60年前のこと、世界は今よりはるかに広かったが、英北西部の港町リバプールで誕生したビートルズの話題は地球上を駆けめぐっていた。
ここ日本も例外ではなかった。何せ「リバプール・ファイブ」というイギリスのグループが来日しようとするが、「リバプール・ビートルズ」と改名させられてしまったのである。1964年9月のことだった。
同月半ばより東京の「後楽園アイスパレス」つまりアイススケート場を利用したコンサート会場で「世界・サーフィン・パレード」と題されたショーが開かれた。そのために来日したのがリバプール・ビートルズだった。
「最初、ぼくはビートルズっていう名前はたくさんあるんだなあと思いました」と元ブルージーンズのギタリスト岡本和夫さんはいう。
リバプール・ビートルズ
ブルージーンズはそのショーで共演した日本側アーチストのひとつだった。ブルージーンズを率いていたのは寺内たけしさんだった。
「ギターを弾きながら、アニマルズのような動きをしました。彼らの動きこそがリバプールサウンドだということで、加瀬邦彦さんをはじめ僕らはそれを取り入れたのです。そして他のバンドも続いたのです」と岡本さん。
「夕方でしたが、40分くらいの演奏だったでしょうか。昔のダンスホールみたいに、遅くまでライブしないのは当時では普通でした。多分そのほうが片づけなんかがやりやすかったからではないでしょうか」。
岡本さんは2023年6月10日(土)にイベントスペース「李世福のアトリエ」(横浜市中区山下町232)で行われたトーク&ライブショーで語った。聞き手は前田建人(まえだ・けんと)さんが務めた。
リバプール・ビートルズは本物のビートルズが来日する前のいわば「露払い」としての役割を果たしたのだ。みんな本場のサウンドに衝撃を受けた。
「サウンドが変わりました。たぶんそれで(ブルージーンズの代表曲のひとつ)「ユア・ベイビー」が出来たのではないか」と岡本さん。ブルージーンズはその曲をジャズ喫茶などで演奏していたが、ワイルドワンズにレコーディングでは先を越されてしまった。作曲者の加瀬邦彦さんがその「犯人」だった。「思い出の渚」のB面に収録されたのだ。
それを知らずにブルージーンズは「ユア・ベイビー」を録音してシングルとしてリリースした。ボーカルは岡本さんが務めた。ブルージーンズのほうが長いバージョンだが、今カラオケに入っているのは短いワイルドワンズのバージョンだという。槇みちるらも「ユア・ベイビー」を歌った。
そして岡本さんらブルージーンズは1966年6~7月に行われたビートルズの日本武道館公演で前座を務めるアーチストのひとつとなった。
しかし、ブルージーンズを率いていた寺内たけしさんは同じステージに立てなかった。「いろいろな本では寺内(タケシ)さんが病気だったなどとか書かれていますが本当は違っていたのです」と岡本さんはいう。
ある時、寺内さんは渡辺プロダクション(ナベプロ)率いる渡辺晋さんら幹部連中と向かい合っていた。晋さんはいった「寺内君、何か話があるんだっけ」。それに対して寺内さんは「実は寺内企画というのを作ろうと思うのです」と言ってナベプロに協力をしていただけないかとお願いをした。
「温泉にでも行って来たら」
すると、晋さんは答えた--「じゃあ、寺内君、温泉にでも行って来たら」。これは「あなたを干します」っていう晋さんからの暗示でしたと岡本さんは振り返った。だから、寺内さんはビートルズと同じステージに立つことは出来ず、「寺内タケシとブルージーンズ」ではなく、「ブルージーンズ」が前座の日本側アーチストとしてクレジットされたのである。
寺内さんと晋さんらとの会談の数日後、岡本さんたちは当時のギャラについて尋ねられたという。答えるとナベプロは「では、その倍払うよ」という。「それじゃ寺さんがいなくても辞めなくてもいいというようになりますよね。寺さん抜きでやれっていうことでしょ」と岡本さん。
そこで内田裕也さんのバックとしてビートルズ日本武道館公演の前座として出演することになったのだ。岡本さんは続けた。「前座では「津軽じょんがら節」もやっていたのです。5回のステージすべてでです。日本テレビが録画していたと思いますが、カットしたのか、一切出てきていません」。
「僕たちは他の人たちと違って東芝レコードでなかった関係からだと思います。東芝がビートルズ日本公演を仕切っていたからです」。
「余談ですが」、岡本さんは言った。「私は若かったから、じょんがらなんてわからない。すると青森に行って見てこいと言われて実際に行きました。ギターと三味線の違いはあるものの、弾くのではなく叩くのだということが分かったのです」。そうして臨んだのがビートルズの前座だった。
ブルージーンズはビートルズのほかにも60年代に人気だったベンチャーズやアストロノウツと共演した経験がある。岡本さんによると、ベンチャーズとは渋谷にあった力道山の「リキパレス」で、アストロノウツとは「新宿厚生年金会館」で同じステージに立った。
アストロノウツは「太陽の彼方に」しかヒット曲がなくて、ライブの最初と最後にそれを演奏したが、その間はインストではなく「ホワッド・アイ・セイ」などのボーカル曲をやっていたという。
岡本さんは加山雄三さんの映画「若大将シリーズ」にも7本くらい出演したことがある。「海の若大将」もそのうちの一本だ。ちょい役やバックで演奏しているバンドとしての出演もあった。
ソ連ツアー前のデモンストレーション・ライブ
寺内タケシさんが76年にソ連でツアーを行う前のデモンストレーション・ライブをNHKホールで開くことになった。寺内さんからは「ブルースター」のアレンジを頼まれた。編成はストリングスの8・6・4・4のフルバンドで、コーラスが男性50名、女性50名。「花束を持っていって寺さんに渡すと、指揮棒を渡されて、指揮をやらされました」。
岡本さんはキャリアが長い。それだけに音楽界への貢献も大きい。テレサ・テンとも仕事を一緒にした。テレサ・テンがヤクルトホールで「ファースト・コンサート」を開くとき、まだ無名だった小林幸子さんが「見たい」というのでチケットを手配してあげたことがあったという。
小林さんの「おもいで酒」がやがて売れてきて、彼女のマネージャーから
「ようやく自分のバンドを持てるようになったから、お願いします」と岡本さんのもとに連絡が入った。およそ8年間バックバンドをやった。
トークのほかに「李世福のアトリエ」ではライブも披露された。
横浜を代表するギタリストである李世福さん、ギターのChaco、ベースのミック、ドラムの友(ゆう)から成る「世福龍」がまず演奏した。
次に岡本さんがギター、前田健人がギター、ベースはミック、ドラムは友の「岡本和夫スペシャルバンド」が「ワン・ナイト」をまず演奏。
「内田裕也さんをしのんでまずはロカビリーを歌わせてください」とのコメントから演奏はスタートした。次が「ユア・ベイビー」そして「津軽じょんがら節」。最後は「ルート66」を李世福さんがボーカルで加わり、「東京サウンドと横浜サウンドの合体」(ケント)となった。