『古団地の鬼』

 これは実話なんですけれど。本当ですよ。少し聞いて下さいよ。すぐに済みますから。
 4歳のときの記憶ってありますか? 私はほとんどありません。印象的なことなら覚えているかもしれませんけど。例えば保育園に行く途中でサボテンのトゲが手のひらに何ヵ所も刺さってしまったとか。包丁ちゃんって渾名の友達がいたとか。そんな断片的なエピソードなら。
 でも4歳の記憶なんてそんなものでしょう?

 それでね。そのくらいのときの家の間取りって覚えています? ああ、そうか。引っ越しとかがないと、普通は覚えているのか。
 私は4歳まで古い団地に住んでいたんですよ。今は違いますよ。
 工場みたいな四角いコンクリート造りで、A棟とB棟みたいに2棟並んでいた。棟の間には確か遊具のある広場があったかな。そんな小綺麗な広場じゃないですよ。蛇とか野犬とか出て母親と逃げ回ったことがあるくらいなんですから。まあ、でも、それは。外から見れば分かるじゃないですか。たまに車でその近くを通ると変わっていないし。それは覚えているんじゃなくて、今でも確認できることなんです。
 それでね。間取り、なんですけど。間取りの記憶がほとんどないんです。廊下もあったはずだし、トイレもお風呂もあったのに、どこにどんな風にあったとか、どう使っていたとかを覚えていないんです。とにかく狭い安賃貸だったんですけれど。
 でもね。襖を挟んで、東と西に4畳ずつ、部屋が並んでいたことだけは覚えています。それだけは鮮明に覚えています。
 ですから、夢ではないんですよ。あれは決して、夢ではないんです。

 当時は父と母と私と2歳下の弟の4人で住んでいて。寝るときに、西側の部屋を父が1人で使い、私と母と弟は3人で東側の部屋を使っていました。
 なんであの人、1人で寝てたんですかね。
 私はその中でも、部屋の一番奥の敷布団で寝ていました。隣には母が寝ていた。
 ある真夜中に、目が覚めました。
 目を覚ました目線の先は、父の寝ている部屋でした。いつも閉まっているはずの襖は全開で、父がこちらに足を向けて寝ている姿が見えました。

 父の周りに何かがいました。
 40センチほどの大きさの、毛むくじゃらの生きもの。うーん、あの『ムーミン』に出てくる『ご先祖さま』というキャラクター知ってますか? そんな感じかなあ。決してそのような可愛いものではないのですが、イメージ的にはそんな感じの。ふさふさとした真っ黒な毛が、全身に生えた丸っこい生き物。
 それがピョン、ピョン、ピョンと父の布団の周りを飛び跳ねていました。たまに、観察するように、父を眺めながら。
 頭には小さな角(つの)がありました。きっと鬼の類だったのでしょうね。え? いや、分からないですけれど。鬼の顔? それも分かりません。顔を見ていないから。「目があったらアイツに気づかれる」って。そう思って。
 同時に「少しでも身動きしたらダメだ」。そう思いました。
 見つかったらどうなるか、そんなこと分かりませんよ。でも直感で。そう思ったんです。いっそ金縛りになってくれた方が良かったくらい。
 でも動ける。
 動いたら、見つかる。
 指先一つでも動かしたら、きっと見つかってしまう。
 本当なら隣で寝ている母を今すぐ起こしたかった。弟が鬼に一番近い位置だったけれど、弟なんてどうでも良かった。泣き出してくれないかとさえ思った。そしたら鬼は私じゃなくて、弟に向かうはずだから。

 ピョンピョンピョン、飛び跳ねていた鬼の動きが止まりました。
 こちらに背を向けている。
 でも、何となくわかるでしょう? 定番ですよね。
「こっちを向く」と思いました。
 アイツは気がついた? 私に。
 私は目をきつく瞑り、寝ているふりをしました。

 私は寝ている。
 私は寝ている。
 私は寝ている。
 起きていない。お前を見てなどいない。
 私は寝ている。
 だから、こっちへ来るな。

 そう心の中で唱えていました。
 でも来ている。こっちに。
 目は開けていないけど、近くに来ている。気配がする。足音なんてなかったけれど、何かが近づいてくる。
 私が起きているか確認している。

 私はずっと心の中で唱えていました。もうほんと、怖くて仕方なかったと思いますよ。さすがにそのときの恐怖感を覚えてはいませんけれど。
 しばらくしたら、気配がなくなりました。そっと目を開けると、開いていたはずの襖が閉まっています。隣に母はいませんでした。弟? さあ。それは知りませんけど。とにかく母が隣にいなかった。そして鬼も。
 襖を開けると、母と父が朝の支度をしていました。もう、朝になっていたんです。
 母に夜起きたことを話しましたが、「夢でも見たんだ」と言って信じてくれませんでした。
 夢? そんなはずはない。
 30歳を過ぎた今でも、あの毛むくじゃらの鬼のこと、部屋が2つあって一番奥で寝ていたこと、母に「夢だ」と言われたこと、夢じゃないと癇癪を起こしたことをはっきり覚えていますから。

 そしてしばらくして、4歳の時、父と母は離婚しました。
 あの鬼が関係あるのか、ないのか……。

 ははは。いや、ないと思いますよ。それっぽいことを言ってみたかっただけで。
 離婚理由は父がギャンブル好きな借金作りをするクソ野郎だったのが原因だったんですから。結局何だったんですかね、あの鬼は。

 オチ? そんなものはないですよ。
 だってこれは実話だって、言ったじゃないですか。いちいち話にオチを求めるのはどうかと思いますよ。ただ怖い話はないかと聞かれたから、お話しただけです。

 お母さんに言っても、きっと覚えていないんだろうなあ。はあ。一応弟にも聞いてみたらって?
 誰の弟にですか。
 ……あなた、何言っているんですか? 気持ちが悪いなあ。

(おしまい)

 サトウ・レンさんのこちらの企画に参加させていただきました。

 あとちょっと、ずるいことしていまして。
 実際の体験を使って書いています。少しだけ脚色して小説にしました。ごめんなさい。

いいなと思ったら応援しよう!

月町さおり
サポートしていただきました費用は小説やイラストを書く資料等に活用させていただきます。