干潟に立てた尼寺
孤独に関する話を書いたが、他にも最近いろいろと思うところが続き、まずはツイッター(X)をすこし離れてみることにした。がっぷり四つだったのを、電柱の影からジトォ、くらいの距離感に。
友人と思っている人たちがそこには多くいるので繋がりを断つのも寂しく、アカウントを削除する事はできないだろうが、スマホからアプリを削除。イーロン、しばしの別れだ、達者でな。
匿名SNSは浅く広く人付き合いをしたい、八方美人の私にとっては最適のツールである。怖い人や優しくない人はブロックやミュートすればいいのだから簡単…だ、そう、簡単…。(震える手でブロック)
幼いころより場から浮くプロとして名を馳せてきた私は、人間づきあいが苦手なせいで自分の意見を言うということがなく、相手が言ってほしいだろうことを言ってきた。不思議なのはそれを口に出しているときは、その言葉がまるで自分自身の考えであるように錯覚してしまうことだ。そして困ったことにその副作用として目の前の人間をすぐに好きになるし信用してしまう。生まれたての雛、42歳。
雛なので場の熱量や方向性に流されて八方美人な言動を繰り返すことになる。あっちにも同意、こっちにも同意、ダブルスタンダード?トリプルでもクアトロでも来やがれ、である。もちろんクアトロが喜ばれるのはクアトロフォルマッジョのピザくらいであり、二枚舌三枚舌が信頼されるわけがない。
当然周囲にはバレているだろうが、こちらもそれなりに行き当たりばったりの擬態が得意なものだからその場しのぎの付き合いはできてしまっていた気がする。
そして今、そういうことを繰り返すうちに結婚も生きる道も見失い、子らに対してすらひたすら浅く浅くやり過ごす、もはやここはどこまでも広がる干潟である。潮干狩りには抜群のロケーションだがここには何分海がない。あゝ、海の幸が恋しい!海よ、俺の海よ(©雄三)
大小様々なツケを払わされる状況になった今、どのように人と関わっていくのが自分にとって一番望ましいのか、考え直したいと思う。
これまでたくさんの友人知人に無礼や不義理を働いてしまい、その度に「こんな人間生きてても仕方ない、申し訳ありません…」と消え入りそうになってきた。もうね、穴を掘って隠れてしまいたい。この広大な干潟に穴があればそこにいるのはマテガイか私かである。違うのはこちとら食ってもあんなに美味くないってこと。
そういう卑屈さに支配されてしまうのにほとほと嫌気がさしてしまったものだから、まずは手始めに過剰にいい人でいようとするのも、人に褒めてもらおうとするのもやめてみようと考えている。(実際はどれくらい嫌な人間なのだろう、と興味もあるし。)
今日は絶対お人好しなことしないぞ!人に親切にもしない!なんなら嫌な奴になってやる!と決意を固めてバス停で待ってたらドアの開閉ボタンを押したそうな幼児が駆けてきたので素直に譲ってしまったし、紙袋が破れて荷物をぶちまけた女性の荷物を一緒に詰めてあげたし(なんならビニール袋も調達してあげた。破れないように二重に!)ベビーカーがバスを降りようとしたらドアが閉まらないように開くボタンを押し続ける。なんも無視できてないやないか!八方美人全然減らせてないやないかクソっ!…まだ初心者だからな、今日んとこはこんなもんにしといてやる。これから世の困った人たちもガンガン無視していくし、頼まれてないことはやらないし、いい人アピールもしないんだからな!!
これは概念における出家、干潟に立てた尼寺である。
再び寺を出たとき、周囲もまた関わりたいと思ってくれるかどうかはわからないが。少しはマシな人間になって出てきたいものだ。