『写真で困っている方のために行動することが私の役割』
まず私がはじめてイェイ!写心を体験したのは2023年2月 山口県のグループホームおいでませ、夢のみずうみ村でのイェイ!写心撮影会でした。
私が尊敬する山口県の女性カメラマンからイェイ!写心撮影会に誘ってもらったことがイェイ写心との出会いのきっかけでした。
正直、最初は怖くてお断りしました。
遺影写真の撮影。
とても責任のある撮影です。
ですがやはりチャレンジしたいという想いが溢れ『やっぱり参加させてください!』と連絡をしました。
その撮影会ではおばあちゃんにヘアメイクをしてあげて写真を撮ってあげるというイベントでした。
撮影はもちろん私のお師匠さま【写真家】橘田龍馬氏です。
ヘアメイクをしてもらっているおばあちゃん達の恥ずかしがりながらも、綺麗にしてもらってときめいている表情がとても可愛くて、イェイ!とみんなで言葉にしながらの撮影が私の心にも幸せを運んできてくれて、正直はじめはどうすればいいのか戸惑いながらのアシスタントでしたが、いつしか誰よりも大声で『イェイ!』と叫んでいました。
グループホームおいでませは認知症の方が利用されている場所で、普段感情を出さない方でも私たちの撮影がはじまると、楽しそうな雰囲気を感じて反応をしてくれたりと、ちゃんと相手に寄り添えば想いは伝わるものだということを感じれた瞬間でした。
こうして私のはじめてのイェイ!写心の体験はまさに『楽しくて最高の笑顔になれる、愛に溢れた写真撮影体験』というものでした。
その時に私はこの素晴らしく、楽しい撮影体験をもっと沢山の人に届けたいと思い、全国にイェイ!写心を広めたいと自ら手を挙げました。
ですがその時の自分には行動をすることができませんでした。
自分自身が旗を振っていくと宣言したにも関わらず。
多くの方の応援をいただいてましたが、自分の殻を破ることができませんでした。
今までにやったことのないことにチャレンジをするということが恐怖で行動できない、人の目を気にして、自分に矢印が向き、自分を変える勇気がなかったからです。
私のイェイ!写心活動はほんの数ヶ月で終わりました。
ですがイェイ!写心活動はどんどん全国からイェイ!写心家を目指す仲間が集まり、勢いを増していました。
イェイ!写心家を育成するアカデミーがスタートする時、イェイ!写心®︎の第一人者である龍馬氏から私は連絡をいただいていました。
『これからまたイェイ!写心活動がはじまる。良かったらまた顔を出しな!』
そうメッセージをいただきました。
自分を変える事ができず、イェイ!写心活動から、龍馬氏からも私はずっと遠ざかっていました。
私がチャレンジできず逃げ出したことで、龍馬氏は多くの方からの信頼や時間を失ってしまったと思います。
『何でくーさんがイェイ!写心の旗を振ってるの?』
『くーさんにはついていけない』
そんな声もありました。
ですがそんな私でさえも受け入れてくださる、龍馬氏の愛はとてつもなく大きなものです。
龍馬氏がずっと大切にしてきた『イェイ!写心』ですが、その時カメラマンとして何の実績も残せていなかった私が旗振りをするというチャンスをくれたことも『くーさんが変わりたい、チャレンジしたいのであれば俺は任せるよ』という龍馬氏の愛があったからこそでした。
そんな龍馬氏がまたチャンスをくださったのですが、その時の私はまだ動くことができませんでした。
そして月日が経ち、まだイェイ!写心への想いははっきりとしたものではありませんが『また龍馬氏のもとで学びたい』という想いが出てきて、また顔を出すようになりました。
私が戻ったとき龍馬氏は一言『昔のことは忘れた』
そう言ってくれました。
けして龍馬氏のことを煽てた言い方をしている訳ではありません、龍馬氏のことを知っている方ならきっとわかるはず。
そんな方がつくったコミュニティ。
イェイ!写心は笑顔と愛の宝箱なのです。
龍馬氏のもとで学んでいくにつれ、次第にまたイェイ!写真への想いが芽生えてきました。
遺影写真が撮りたい。
そんな時アカデミー2期生の募集がはじまりました。
私はすぐに申し込みました。
それからすぐに福岡の両親に会いに行きました。
毎年の家族写真を撮るためです。
私の母は認知症なのですが、久しぶりに会った母は車椅子に乗っていました。
足腰も衰えて自分で歩くことができなくなっていました。
そんなこととは知らず私はその時、母親の姿を見て親はいつまも居る訳ではないんだという、親の死というものをはじめて実感しました。
認知症といえどまだ自分のこと、息子のことは理解できます。
私の顔、妻の顔を見るたび母はずっと顔を伏せて泣いていました。
その泣いている理由は自分がこんな姿になってしまったことが悔しいという想いなんだと私は感じました。
母の笑顔の写真を撮りたくても、今は殆ど笑う事ができません。
ですがまだ母が元気だったうちに、母の笑顔の写真を私は撮っていました。
この写真を撮れたのは私がカメラマンだったからです。
サラリーマンからカメラマンに転職していたからこそ写真を撮る事ができてました。
そこで改めて遺影写真を残していくことの大切さも実感しました。
イェイ!写心をまた撮っていきたいと思っていた時に自分自身の親のことを体験したことは、これは私の覚悟を決めるため、写真を撮るためにカメラマンになったんだと思いました。
カメラマンとして笑顔の写真を撮ることが私の役割です。
その為に恩師と出会い、また自分を変えるチャンスをいただき、カメラマンという道を歩いているんだと思います。
だからこそ自分にしか出来ないことを、これからの人生でそれを果たしていきたいです。
写真で困っている方のために、行動していく。
ここには励まし会える仲間が居ます。
だから行動していくことができます。
ひとりではない。
どんなコミュニティに居るのか
最初にどんな人に学んだのか
そこで人生は変わります。
なんども挫けても、自分が変わりたいと諦めずにチャレンジしていけば、誰でも人生を変えていけます。
私が写真を撮ることで一人でも笑顔になって幸せだと感じてくれる人が居るのなら、私は写真を撮っていきたい。
それが私の幸せだからです。
2024年9月20日
【写真家】久東裕次