「評価」として、記述可能なところと難しいところ

評価として記述が可能なところと難しいところについて、今、改めて考えさせられています。

例えば、ハムストリングスの緊張が問題であるとして、それが内側なのか外側なのか、起始側なのか停止側なのか。
さらにはもっと細かく、内側にあたる半腱・半膜様筋の筋間部分であるとか、さらには特定の線維と記述することは可能でしょう。

でも、その軟部組織の質的異常が存在する範囲、深さ、方向まで詳述するのはなかなか大変です。
とはいえ手技療法を用いる時は、そこまで認識して実施しないと、効きがイマイチ甘い場合もあることを経験上感じています。

例えば球技なら、ボールを打つときに
「ボールに当たるだけでは飛ばない。芯に食わせないといけない」
ということと、似ているのかもしれません。

バットにボールを当てるだけなら、位置的な記述もある程度可能でしょう。
でも、芯に食わせて打つとなると、どう言語化して表現すればよいか。

さらに芯に食わせられる技術を、習得させるためにはどうサポートすればよいのか。
悩ましいところではないでしょうか。

手技療法を用いる時も、手法がソフトかハードかを問わず、機能障害の芯を捉えることが必要な場合もあります。
ビギナーとベテランが外見上は同じようなことをしているようで、効きが違ってくる理由の一つはそこにあるはずです。

初めは当たるだけでもOKですし、ある程度の効果は上げるでしょう。
しかし、それが全てとしてしまうのはもったいないです。
治療家、トレーナーとして経験を積んだ方ほど、記述可能な範囲と、難しい範囲との隔たりを感じることは少なくないのではないでしょうか。
みなさんのご意見を伺いたいところです。

感覚的なことを、完全に言語化することは不可能かもしれません。
でもそれを承知の上で言語化する努力を止めず、次の世代により良いものを伝えていくことが経験者の責任なのだろうと思います。


もちろん学習者本人が、本気になって努力していることが一番大切なのは言うまでもなく、芯を捉える感覚は自分で掴み取るしかないものです。
それを踏まえた上で、伸び悩んでいる人が這い上がってくるために、差し伸べられる言葉を準備しておいてあげよう、ということ。

聞いてしまえば、何ということはないひとつの言葉。
でも、それを絞り出して確信を持てるようになるにはけっこう消耗するもので、「ふ~ん」で聞き流されてガクッとなることもあるけれど、それは仕方ありません。

仏教の『禅』は「不立文字」を中心的な教義のひとつとして掲げながら、宗派として最も多くの書籍を古来から遺してきたそうです。
語ることが難しい「悟り」の世界を、何とか表現して伝えようとしてきた先人たちの努力には遠く及ばないかもしれないけれど、見習って励みにしたいです。

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