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男子校の良さを語る御三家の記事を読んで

こんばんは、くつばこ+のはるです。今日は昨日に引き続き、男女別学の意義についてです。今日の分だけを読んでも内容は理解できると思いますが、私の考えについては前回まとめてありますので必要でしたらお読みください。

☆この記事のまとめ

簡単に感想をまとめると、「そもそも校長が男女のレッテルから抜け出せていない」「男子校である積極的な理由はない」という2点が記事の感想です。どの学校も、学校としての価値が素晴らしいことは知っていますし、失われてしまうのはもったいないと感じますが、「それが共学になることで失われてしまうのだ」、という主張が校長のインタビューの中に隠れていて、それが一番の理由ではないかと感じました。

☆そもそも校長が男女のレッテルから抜け出せてない

校長の意見、つまり男子校の存在意義が男女のレッテルの上に存在しているという箇所は以下です。男女差別にはつながらないという主張なのに、根本的な矛盾です。

・「男子の脳は関心事には素晴らしい集中力を発揮します」(麻布)
→脳の性差は十分な根拠が見つかっていません。

・「男子校においては、教科教育においてはもちろんですが、一般的には変な趣味、オタクと言われるような嗜好に関しても隠したり、恥ずかしがったりすることなく没頭したり、友人と語らったりすることができます。」(麻布)
→社会に出れば、男子の変な趣味は隠さなければいけないものだという概念

・日常空間に同世代の異性の目がないことによって、「男らしさ」「女らしさ」という二項対立的な考えにとらわれることなく、「自分らしさ」を探すことができる(開成)
→現状の社会に強く「男らしさ・女らしさ」という考えがあることは否めないが、そもそもその二項対立であるという考えが間違っている。「男らしさ・女らしさ」が求められなくなったとき、男子校の存在意義はないのか。

・(「新しい時代の女性の良きパートナーとなるために」:定員40名等)を設けています。(麻布)
→カップル・パートナーは男女だ、という固定観念の中で授業が展開されていることが気になる。内容を見てみたい。

☆男子校である積極的な理由はない

消極的な理由として、麻布と開成があげているのは「異性の目がないと自由に行動できる」ということです。これに異性だけが恋愛対象ではない自分をはさむと複雑になってしまうので自分の肌感覚の感想は書きませんが、共学だと自分の意見や趣味が抑制されてしまう、というのは本当でしょうか。実際はそうではないと感じます。そう思ってしまうの原因は、むしろ男子校の環境の中で育ったあと、社会に出て抑制をかけている自分自身ではないでしょうか。正直、男女がいる集団と女子だけの集団(例えば教室と部活)を比較しても、会話の内容が変わるとしたら下ネタくらいじゃないですか。

☆校風が乱れてしまうからではないか

記事を読んだうえでこの三校の校長が男子校の継続を望む理由は、構成する1つの要因が「男子校」である、伝統的な校風を乱さないためではないかと考えます。開成の運動会の迫力をご存じですか。あれは正直共学ではできない文化だと思います。

あ、あと武蔵の校長先生の考え方は結構好きです。

☆うたの記事を踏まえて

こちらのうた(男子校出身)の記事(同じ文春の記事の感想)を読んで少しだけ書いて終わりたいと思います。

①すごい、記事のまとめがある。さすがだ。

②短い。

筑駒の校風は私も大好きなので、なくなってほしくないとも思いつつ、筑駒は共学になっても比較的校風を維持できるタイプの校風だと感じます。でもやはり、校風に影響を与える大きな要素として男子校というものが存在しているのは事実っぽいですね。アンケートとかしてみたい。


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