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苦界寺門前町地下迷宮(1/6)
1/6
その男は大きなガラスケースの前に立っていた。
ゆったりとしたローブのような黒い服を着ている。雄牛のような肉体の持ち主で、実際頭からは牛の角が生えていた。胸には翼を意匠化した銀色のバッヂ。
彼は人間ではない。超常の存在、血族である。
目の前にあるガラスケースは水族館の水槽のように大きく、中は無機質なデザインの寝室になっている。全面ガラス張りで、バスルームとトイレすらも丸見えだ。
一つしかない出入り口には鍵がついている。ガラスケースの独房なのだ。
ベッドには一人の女が寝かされている。銀髪の美女で、男が着せた白いドレスを纏っている。まるで白磁の人形のように美しい。
女の目元が小さく痙攣し、はっと目を覚ました。ガラス壁越しに男を見る。男は邪悪な優越感たっぷりに微笑んだ。
「おはよう。俺は牛頭《ごず》家のミノタウロス」
女は物怖じすることなく男を見返した。強い意思を秘めた目をしていた。
「あなたは?」
「お前の新しい飼い主だ。お前のその髪。とてもキレイだ」
「ここはどこなの? なぜこんなことを?」
「ここはお前が残りの一生を過ごす飼育小屋だ。二つ目の質問だが……」
ミノタウロスは微笑んだ。
「美女が好きなんだ。お前のように美しい女を眺めていたいんだよ。虫カゴに閉じ込めて、朝から夜までずっと」
女は挑発的に笑った。
「すぐに助けに来るわ」
「いいや。誰も来ない」
「そうかしら?」
ミノタウロスは手にした小さなカプセルを彼女に見せた。
それを見た瞬間に女の顔色が変わり、さっと右肩に手をやる。そこに張り付いていた絆創膏を剥がすと、丁寧に治療された跡があった。
ミノタウロスは彼女の様子に楽しげに目を細めた。
「体の中に発信機を埋め込んでくるとは。バカなことを。誰を呼び込むつもりだったかは知らんが、もうどうにもならんな」
ミノタウロスは発信機入りカプセルを握り込んだ。
「食事は一日三回。栄養バランスの取れたものを用意する。必要なものがあれば言いたまえ。何をしていても自由だ」
ミノタウロスは踵を返し、隣のガラスケースに向かった。そちらにもまた若い女が囚われていた。ミノタウロスを見るなりヒッと悲鳴を上げ、ベッドの後ろに隠れる。
航空機の格納庫並みに広いその地下の部屋には、同じようなガラスケースがいくつも並び、いくつもの寝室があって、何人もの女たちが囚われている。
長い監禁生活で発狂した者、絶望しすすり泣く者、シーツで首を吊って死んでいる者。
ミノタウロスは女たちを嬉しそうに眺め、餌を与え、健康状態をチェックして回った。自殺者は運び出し、死んだ虫のように焼却炉に捨てた。
* * *
その二日前、重工業都市・天外《てんげ》。
この市《まち》に日の光が差すことはない。空は一年中どんよりとした暗雲に覆われ、公害汚染された霧雨が降り続ける。
工業が産み出す莫大な利益により、市の中心は超高層ビルの摩天楼となっている。その一方で貧民街には公害病が蔓延し、家畜同然の工場労働者は合法麻薬《エル》で日々募る疲労と絶望を麻痺させる。
ここは繁栄と退廃が渾然一体となった、雨ざらしの地獄である。
ビジネス街の片隅に、高速道路と鉄道の高架が交差する場所がある。その下に汚染霧雨を避けるようにしておでん屋の屋台が店を出していた。
一組の少年少女がビニールシートの覆いを潜り、屋台に入った。店内ではポータブル空気清浄機が低い唸りを上げている。天外市民はみな汚染霧雨がもたらす不治の病、霧雨病を何よりも恐れており、こんな小さな屋台でも空気の鮮度を気にかけている。
二人を見た女店主がいぶかしんだ。
「ウチは酒しかないよ。あんたら高校生じゃないの?」
ツナギ姿の少年が手を振ってそれを遮り、防霧マスクを外すと、一人だけいる客に話しかけた。
「あんた、丸池《まるいけ》捉人《とらうど》さん?」
男はちらりと顔を上げた。五十過ぎで、白いものが入った髪は後退を始めている。老いた野良猫のように猜疑心が強そうだ。
「お前らは?」
少年らは長椅子に座った。
少年は小柄だが狂犬めいた目をしていた。名は石音《いしね》日与《ひよ》。
少女のほうはパーカーにジーンズだ。長い黒髪をフードの中にたくし込んでいる。整った目鼻をしており、育ちの良さを感じさせた。名は藤丸《ふじまる》昴《すばる》。
昴が口を開いた。
「苦界寺《くがいじ》門前町の下にあるダンジョンに入りたいんです。あなたは探索《エクスプロール》の達人って聞きました」
捉人はコップ酒を口にし、鼻で笑った。
「あそこのダンジョンがどんな場所かわかって言ってるんだろうな、ガキ?」
日与が答えた。
「わかってる。市《まち》の下に広がってるデケえ地下空間だろ。アリの巣みたいに通路と部屋がいっぱいあるって」
「いいや、わかってない。ガキが生きて帰れる場所じゃない。帰って宿題やれ」
日与は自分と昴を交互に指差した。
「俺もそっちも血が入ってるぜ」
捉人は二人を値踏みするように見た。血が入っているとは、血族という意味だ。
「カネが目的か?」
「いや。ダンジョンに住み着いてるミノタウロスって血族に用がある」
「そいつに何の用だ?」
「噂じゃミノタウロスはさらった女を飼い殺しにしてるそうだな。その女たちを助けたい」
「正義の味方ごっこか。冒険ごっこよりタチが悪いな」
日与は店主の視線に気付き、おでんを注文してから話を続けた。
「俺たちはボスの使いで来てる。ボスは自分が囮になってミノタウロスにさらわれるつもりでいる。ミノタウロスと取引してる人身売買組織と渡りをつけてな。俺たちはミノタウロスのネグラに奇襲をかけて、ボスと女たちを助ける」
「どうやって?」
「ボスは体に発信機を埋め込んだ。だけど小さいやつだから、近くまで行かないと発信源がわからない。あんたならミノタウロスのネグラに心当たりがあるんじゃないか?」
捉人はしばし記憶をたどるような目をした。
「まあ、見当はつくがな。だが女を引き渡すときに襲ってネグラを吐かせたほうが早いだろう?」
「それじゃあ本当のことを言うかどうかわからないし、ダンジョンはそいつの庭だから案内させたとしてもどこへ連れて行かれるやら」
「尾行すれば?」
「血族は勘が鋭いからそれも難しい。それにヤツの庭で見失ったらそれこそ最悪だ……というのが、ボスの考えだ。で、この計画を立てた」
「なるほど。それで俺に眼を付けたか」
おでんが出された。昴は不思議そうにんぺんを箸でつまみ上げ、日与に聞いた。
「これ何?」
「おでんだよ。食ったことないのか? それは魚のすり身だ」
「へえ」
昴は物珍しげにはんぺんを食べた。
日与は捉人に続けた。
「頼めるか?」
「俺の腕は業界最高だ。高いぞ」
「さらわれた女の一人は資産家の娘だ。連れ戻したら両親が謝礼を払うと言ってる。そのカネはあんたにやる。俺たちは女たちとボスさえ助けられりゃいい。血族の護衛二人を連れてひと稼ぎしに行くと思ってくれ」
日与は金額をメモした紙切れを見せた。捉人はそれを確かめたあと、コップ酒に残った酒に視線を落とした。
「まあ、考えてもいい」
* * *
苦界寺門前町は天外郊外の寂れた町で、駅前の苦界寺を中心に広がっている。
この寺は江戸時代、身寄りのない下層遊女の死体を捨てていたいわゆる投げ込み寺で、大きな供養塔が建っている。
日与たち探索者《エクスプローラー》のチームは苦界寺の裏手にある、廃墟化した浄水施設へ向かった。
施設内から枯れた地下排水路へと降りる。パイプは鉄道が通せるくらいの大きさがあり、ライトをつけた日与たちが入って行くと、ドブネズミの群れが甲高い鳴き声を上げて散った。
メンバーはみな防水のカーゴパンツやマウンテンパーカーといった格好で、洞窟探検隊さながらの装備だ。冒険が好きな昴はずっとワクワクしていて、前日は楽しみすぎてほとんど眠れなかったと日与に言っていた。
メンバーは日与、昴、捉人、そして捉人が「もうひとりくらい人手がいる」と言って連れてきた男の四人だ。
その男は捉人とは別件で知り合ったが、ダンジョンに入るのはこれが始めてだという。眼鏡をかけた二十歳過ぎの若い男で、探検家というよりはデスクワーカーといった雰囲気だ。
日与は彼を見て言った。
「そういやお互い名乗ってなかったな」
「そうでした。僕は字神《あざがみ》家のドゥードゥラー」
家系を名乗ったということは血族ということだ。はるか遠い昔、血族が己の家名を背負って名乗りを上げていたころの名残である。
日与はブロイラーマン、昴はリップショットという血族としての名を名乗り返した。
日与が聞いた。
「ドゥードゥラーってどういう意味だ?」
「〝落書き屋〟。仕事で漫画を描いてるんです」
とたんに昴が目を輝かせた。彼女はオタクである。
「すごい! 『ライオットボーイ』みたいなやつ?」
「それを言ったらプライベートを明かすことになるでしょう。こういう仕事なんだし、おたがい素性は秘密ですよ」
「あ、そっか。ごめんなさい」
ドゥードゥラーは苦笑した。
「まあ、どっちみち言っても知らないと思いますよ。食ってくのがやっとです」
「それでこんな危ない仕事を?」
「それもありますけどね。だって財宝、怪物、罠だらけのダンジョンですよ! しかも目的はお姫様の救出。まるで漫画じゃないですか」
捉人が鼻を鳴らした。
「エクスプローラーにロマンなんかない。あるのは現実だけだ」
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