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18.佐次郎と稲日(4/4)
4/4
日与は二人のやりとりに耐えかねてマットレスから起き上がった。自分の体には大きすぎる佐次郎のパジャマを引きずり、寝室を出ると、佐次郎と稲日が同時に振り返った。
日与は言った。
「やめてくれ。俺が出て行く」
「バカ言わないで! 大ケガしてるんだよ? 腕も……」
稲日が悲鳴のような声を上げると、日与は肩に羽織っていたパジャマをめくった。
右腕はちゃんとそこにあった。赤ん坊のようにまっさらな皮膚に包まれた、真新しい腕だ。稲日は口を開けたまま手を伸ばし、日与のその腕におそるおそる触れた。
「ウッソでしょ!? 何で?」
血羽の肉体機能は驚異的だ。時間をかけて休息を取り、栄養分を蓄えることで失われた器官を再生できるのだ。
佐次郎は日与の新しい腕を撫で回す稲日に厳しい顔をした。
「おい。近いぞ」
稲日ははっとし、少し顔を赤らめて日与から離れた。
日与は自分の右腕を撫でながら稲日に言った。
「佐次郎さんの言う通りだ。俺はヤバイことになってる。お前たちを巻き込むかも知れない」
「けど、でも……」
稲日が助けを求めるように佐次郎を見た。佐次郎はピンと来た顔をして日与に言った。
「お前、ボクシング習いたくねえか?」
「え?」
「俺にはわかる。ケンカに負けて完膚なきまで叩きのめされた男ってヤツぁ、みんなお前みたいな顔してんだ。俺も初めてジムの門を叩いた時はそうだった。誰かにやり返したくってたまんねえんだろ? なあ?」
急に多弁になった佐次郎に困惑しながらも、日与は頷いた。
「……まあな」
「そうだろう! そんな今のお前に足りねえのはボクシングだ。ボクシングこそ男の矜持だ。俺に任せとけ。俺はチャンピオンだぞ」
そう言って佐次郎は壁にかかった写真を指差した。若いころの佐次郎がチャンピオンベルトを掲げ、リング上でトレーナーらしき男に肩車されている。ボコボコにされた顔に満面の笑みを浮かべていた。
日与は曖昧に頷いた。
「あー……わかった。その前に少し出かける。電話しなきゃいけないんだ」
「電話ならうちのを使え」
「それだと誰に聞かれるかわからない。公衆電話を見つける」
「待てって、おい! ガキ……」
「色々ありがとう。じゃあ」
日与は二人が止めるのを聞かず、急いで家を出た。
建物の屋上へ駆け上がり、屋上から屋上へと飛び移って町外れへ向かう。いつの間にかその姿は雄鶏頭に背広、赤いネクタイの異形になっている。
一度、ブロイラーマンは佐次郎の家を振り返った。後ろ髪を引かれる思いだったが、もう戻るつもりはなかった。あの二人を危険に巻き込みたくない。
(明来は無事か? 永久さんと昴も……)
市《まち》を出て郊外に差しかかり、さらに荒れ畑と廃墟の農村が広がる地帯に入ると、高速道路沿いのサービスエリアを見つけた。変身を解いてそこに入る。
今の時代、公衆電話の数はそこそこ増えている。ときどき磁気嵐が訪れて携帯電話の類が使えなくなることがあるのだ。
日与は電話ボックスに入り、小銭を入れようとして落とした。右腕は再生したが完全に感覚を取り戻すまでは時間がかかるようだ。
受話器を首に挟むと左手で小銭を拾ってスロットに入れ、明来が身柄を隠しているサナトリウムにかけた。サナトリウムの職員が出ると、日与は出来る限り大人っぽい声を出し、明来の偽名を告げた。
「えー、お世話になってます。天外生命株式会社の者ですが。依頼人さまと保険金の支払いについて少々お話したいことがありまして」
「わかりました。少々お待ち下さい……」
しばらくすると明来の声がした。
「何かの間違いじゃないですかね? 保険なんか入ってないんですけど……」
「明来! 俺だ」
明来は明るい声を出した。
「日与か!? 電話に出ねえから心配したぞ」
「悪い。今いいか? 何も変わりないか?」
「こっちはいつも通りだ。何かあったのか?」
日与は安堵のあまり力が抜けた。
「いや……何もないんならいいんだ」
「永久さんから連絡があったぞ。もしお前から電話があったら自分たちは無事ってことと、伝言はポイントBへって伝えてくれって」
「永久さんから!? ああ、良かった」
日与はもう一度安堵し、笑みをこぼした。
それからしばらく取りとめのない話をした。ちゃんと飯を食っているかとか、そういったことだ。明来は元気そうに振る舞っているが、声に力がない。彼のやつれた顔が目に浮かぶようだ。明らかに症状が悪化している。
ふと会話が途切れたとき、明来は声のトーンを落とした。
「あー……実はさ。ずっとお前に言わなくちゃいけないことがあった。お前の学費のために再生廃油プラントに行ってたって話」
「それが?」
「嘘だ」
「嘘って……? じゃあカネはどうしてたんだよ?」
「プラントには行ったさ。手配師を見つけて、船でプラントの施設に行って。それで……仕事が地獄みたいにキツくて。三日で泣きが入って、逃げ出した。それからはずっと……天外港の裏路地で麻薬の売人をやってた。そのカネを振り込んでたんだ」
「……」
「ハハ。何でだろうな。ずっと秘密にしとこうと思ったのに」
明来は泣いていた。
「お前の記憶ん中じゃ立派な兄貴でいたかった。最近ずっとキツくて……これだけは、死ぬ前にお前に白状しとかなきゃいけねえと思って……」
「やめろ! 言うんじゃねえ!」
日与は叫んだ。胸が潰れそうだった。
「本当にキツいんだ、日与。夜になると息が出来なくなるんだ。肺に砂利が詰まってるみてえで……悪ぃ、日与……」
「謝るんじゃねえ! そんなことで……そんなことでお前を見損なったりしねえ! 病気のことは俺が必ず何とかする! 医者になるんだろ!」
明来の声は優しかった。
「俺ぁ知ってるんだぜ、日与。お前がスゲーヤツだってさ。お前のやりてえことはきっと上手く行く。だから……これ以上、俺に時間を使うな。お前の人生のために使え」
「明来!」
電話が切れた。
日与はしばらく受話器を置くことが出来なかった。ぼろぼろと涙が落ちた。
「ああああ!」
日与は絶叫し、どうしようもない感情に振り回されて公衆電話を殴った。
ドゴォ!
ボックスの強化ガラスを突き破って電話が飛び出す。
日与はしばらくその場にうずくまり、親に置いて行かれた子どものように泣いていた。
このままもう一度九楼に立ち向かうか。勝算はない。自殺行為になるだろう。それとも……
* * *
チャイムの音がすると、稲日は弾かれたように席を立って玄関に走った。
ドアを開けるとずぶ濡れの日与がいた。日与は稲日の後ろに立っている佐次郎に言った。
「ボクシングを教えてくれ。どうしても倒さなきゃいけないヤツがいるんだ」
(続く……)
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