花束日誌1
某月某日
訃報はたいてい、電車に乗っているときに届く。土浦から特急ときわの品川行に乗り込んでスマホを開くと、choriさんの亡くなった件がツイッターに流れていた。三十九歳だったという。
もう十五年以上会っていなかったが、今年に入ってから同年代の詩の書き手の知り合いを榎本櫻湖さんに続いて亡くしたことになる。榎本さんの死のしらせを編集者の藤井一乃さんから受けたのも、非常勤先の大学の健康診断を受けたあとの電車の中であった。四月の、雨降りの夕刻だった。
どういうわけかchoriさんは私をライバル視するかのようなことを時々ネット上に書き込んでいた。冗談のつもりであるのは明らかだったとはいえ、その類の文言を目にするたびにほのかな困惑をおぼえたのは事実だ。
学部生の頃の冬だっただろうか、一度、彼や同じく詩人のクロラ(小倉拓也)さんや谷竜一さんと共に、当時谷さんの住まいだった練馬の年季の入ったアパートで闇鍋を囲んだことがある。おそらくchoriさんが持ち込んだのであろう胡瓜の漬け物の汁の味によってすべてがぶち壊しになったのが印象深いのだが、それ以上に、その場でパソコンから鳴るビートに合わせて、愉快そうに体を揺すりながら、ライムを刻んでいたchoriさんの姿が目に焼きついている。ああ、彼の詩が生きる場所は自分の詩の生きる場所とはまた違うなーーそんな、敬意の混じったへだたりのようなものを感じたのだった。
だからこそ、なぜ彼がことさらに私に対するライバル意識をたとえ冗談であっても言挙げしなければならないのかが不思議でもあった。そんなことわざわざしなくても、君はすでに君の場所を踏みしめているだろう、と。
結局、choriさんとはいつかまた会うこともあるだろう、と思いながらも直接会う機会はなかった。彼の消息として、週刊新潮に裏千家家元息子のぶっ飛びライブ活動などといった揶揄的な記事が載ったのを目にしたことはあった。ご本人は嫌だったかもしれないが、このような形でも華々しく注目されているのはいいなあーーと、詩については専門誌に年に数度寄稿するくらいの活動しかせずに日々の生活に追われていた私は、すこし羨んだりもした。ベストアルバムを出すという企画があったことも訃報を追っているうちに知った。
choriさん、さようなら。