『キョーレツナリズム』番外篇 「ハヅキ」
(2013年にmixiに発表した番外篇の再録です)
2012年12月31日、調布の日活撮影所。こんな大晦日に撮影という段取りになってしまった。しかも肝のシーンの撮影だ。いわゆる「濡れ場」のシーン。
若い監督が長年温めていた怪談映画にやっと資金繰りができてゴーとなった。さらに日本のインディーズ映画界の錚々(そうそう)たるメンバーがうまい具合に集まった(出演者も、裏方たちもだ)。
その怪談では、ある日村に現れた美しい娘に誘惑された村の若い男が、その娘の床(とこ)に夜這いに行く。男を喜んで受け入れる娘は、実は人間ではない。男と抱き合うと、その男の生気を吸い取ってしまう。男はひからびて、力つきてしまう。そんなシーンを撮るのだ。
監督が、たまたま画廊で見かけた掛け軸の絵を、その濡れ場シーンの壁に設置したいと言ってきた。そして、男が生気を吸い取られるシーンでは、その掛け軸のアップとなり、その下にうごめく男女の姿がかすかに見えるだけとなる。CGで男がひからびるシーンを見せるなど無粋の極み、むしろ暗示的なシーンのほうがよほど気がきいているというのが監督の弁。まあ、私も、そうだなと思った。
さて、その掛け軸画には着物の胸をはだけた妖艶な女が描かれているのだが、著名な日本画家が描いたのかと思いきや、なんと美大を卒業したての若い女の子が描いたのだと言う。若くして、なんと豊穣な色気や、くぐもった呪いの風情を描くことか。舌を巻く。
私のすぐ隣には、その掛け軸の絵を描いた横山ハヅキさんという女性がいる。彼女こそ日本画から抜け出したような、りんとした目、長い黒髪、物静かな出で立ちの美人さんだ。少しつり目の目が印象的、女優さんだと言われても不思議ではない。
彼女は今日、みずから大きな画材ケースにその掛け軸画を入れて撮影所に現れた。自分の作品が舞台装置にセッティングされるところを興味深く見ていた。良い具合に汚れてくたびれた部屋の大道具に、その掛け軸画は奇妙にはまり、怪しい存在感を示した。監督の読みの通りだ。これは良い画面になる。その、胸をはだけた掛け軸画の下で、魔性の女は同じく胸をはだけるのだから。
「なんか、プロの現場だと言う感じがしますね」とハヅキさん。
「今回はね・・・舞台美術に若手有望格が入ってるから、手際がいいんですよ」
「なんだか嬉しいです。こんな作品に私の絵を使ってもらえて」
「作品をお借りするだけのつもりだったんですけど、撮影をご覧になりたいとおっしゃるから。でも、ほんのワンシーンの撮影だけど、長丁場ですよ。大丈夫ですか?」
「いや、見ていてめずらしくて、飽きません」
しっかりと見据える目。この子には、強靭な心を持つ者ならではの、しなやかさがある。これから始まる男女のまぐわいのシーンの撮影も、きっと淡々と見るのだろう。
10数年前、こんな目をした女性に恋をしたではないか。平田幹さん。作曲家・プロデューサーの坂本周作のマネージャーを務め、私の助手としても映画の宣伝を手伝ってくれた女性。私は本当に彼女が好きだった。彼女が去った後、いっこうに私が結婚しなかったのは、彼女の幻影を追いかけていたからか・・・いや、違う、私がものぐさだったからだ。映画の事ばかり考えていて、女性をちゃんと気遣う事ができなかったからだ。でも、あの頃は、映画よりも幹さんの事ばかり考えていたな。
「各務原(かがみはら)さん、お弁当来ました。一休みしましょう」スタッフが声をかけた。「大晦日だから、蕎麦付きの弁当にしました!」
私にも、となりのハヅキさんにもお弁当と暑いお茶が渡された。監督たちは、まだ何か打ち合わせしていて、食べ始めない。
「・・・ハヅキさん、食べよう」
彼女が食べづらい雰囲気にしていはいけない。私はどんどん弁当の包みを開けた。ハヅキさんも、それにつられて弁当を開けた。
「あら、けっこう豪華だ」とハヅキさん。
「大晦日にみんなを働かせるから、少し気張ってもらった」
「私、貧乏学生だったから、食べ物質素だったんですよ」
「おや、良いところのお嬢さんかと思ってた」
「黙ってると、そう見えるみたい。でも、調子に乗って話し始めると、べらんめえになって地が出ちゃう」
「そうなの?かっこいいじゃない」
メイクを終えた女優と男優もお弁当を食べ始めている。監督が近づいてきた。
「思い切ってカメラ長回しで行きます。よほどの事がなければ、なるべくテイク1で行きます」
「潔いね」
「それが僕の取り柄ですから」
ほどなく撮影が始まった。掛け軸をさげた壁面を背に女がいる。男が夜這いをして来る。女は「思うつぼ」という笑みを浮かべて、ゆっくりと着物の胸元をはだける。男は吸い寄せられるように、女の乳房の間に顔を埋める。男は女の着物を少しずつ脱がし、自分も裸になってゆく。そして裸で抱き合う二人。
カメラは3台回していた。メインのカメラはこのだんだんと二人の上の掛け軸にフォーカスする。でも、残りの2台は二人の「まぐわい」を撮影し続ける。あとで使うかどうかは分からないが、男が女のからだを愛撫するさまを撮り続ける。
リアルだ。本当にまぐわっているようだ。そして、だんだんと男がうめき声を出す。生気が吸い取られ始めたのだ。男の声は次第に悲鳴となり、それもだんだんか細くなって、無言となる。男はぐったりと女の上に覆い被さった。そして30秒ほどして、監督が「カット!」と声を出した。
「ばっちりだ!テイク1でOKだ!お疲れ様です」監督がそう言うと、男優も女優も全裸のまま立ち上がった。二人ともたいそう汗をかいている。スタッフがタオルを渡して、二人は汗を拭きながら全裸で隣の控え室に消えて行った。
ハヅキさんは、予想通りしっかりと見据えた目で、撮影の一部始終を観ていた。もしかして、すべて記憶してしまったのではないかと思わせる真剣なまなざしで。
監督が近づいてきて、私にいろいろ相談した。なんと、そうか。私は一息置いて、ハヅキさんに言った。
「・・・監督はすぐさま編集作業に入ると言ってる。足掛け2年編集だよもう。ハヅキさんは私の車でお送りしましょう」
「いえ、私、バスで帰りますよ」
「もう10時まわってますよ。バスないですよ。お送りしますよ」
ハヅキさんは撮影に使った掛け軸を丁寧に自分のケースにしまった。調布の日活撮影所は狭いのが取り柄、というか、私の車は撮影スタジオのすぐそばに停めてある。用意を終えたハヅキさんに私は「こちらへ」と言って自分の車に乗せた。
「すいませんね、甘えます」
「こんな遅い時間だから当然です。お家はどちらですか?」
「南新宿の駅のそばなんです」
「あ、けっこう都心なんですね」
「でも、安アパートですよ」
撮影所から車を出して左折。しばし多摩川に平行な道を走った後、再び左折して甲州街道へ。道はすいている。
「ハヅキさんは今はなんの仕事をしてるんでしたっけ?」
「三鷹市の画廊でアルバイトしてます」
「ハヅキさんは、そのうち絵で食って行けるんじゃないかな」
「それ、夢のまた夢です」
「いや、きっとチャンスはいきなり来るよ」
「各務原(かがみはら)さんは、チャンスはいきなり来ましたか?」
「なかなか来なかったね。映画の編集技師の助手やってたんだけど、もう食うや食わずで。でも絶対に映画で食って行こうと思っていた。でね、ある時編集技師の師匠が病に倒れたの。その時、こなさなければならない編集がたくさんあって、私がなんとかやってのけた。がむしゃらにやったよ。あれが私に到来したチャスだった。師匠が倒れてくれたおかげだ」
ハヅキさんが笑う。
「ハヅキさんはアパート住まいとというと、東京の人じゃないんだね。実家に帰らなくていいの?」
「明日、元旦に帰ります。昨日まで画廊のアルバイトが入っていたし、今日はどうしても撮影を観たかったし、そうしちゃいました」
「なんか、すまなかったね」
「学生時代だってろくに帰らなかったですから。貧乏だったから、年末年始の単発バイトしてました。学校のある時期もなるべく働いてました」
「どんな仕事してたの?」
「一番長くやったのが、実は絵のモデルです」
「え?自分も絵描きなのに、絵のモデルやってたの?」
「そうなんですよ。デッサンのヌードモデルです」
「本当に?自分の美大でじゃないんでしょ?」
「さすがにそれはまずいので、専門学校とかでやってました」
「それは意外だった・・・」
道がすいているので、もうすぐ新宿界隈に着いてしまう。幡ヶ谷を越した。ハヅキさんが聞いた。
「各務原さんはどこにお住まいなんですか?」
「今は門前仲町。永代橋を渡ってすぐのあたりです。ぎりぎり川向こう」
「あ、いいエリアですね。佐賀町ですか?」
「ああ、その通りです。クリスマスから年始にかけては、隅田川の橋のいくつかがライトアップしていて、夜はきれいですよ」
「いいなあ、見たいなあ」
「今から見に行きますか?疲れてなければ」
「え、本当ですか?行きたいです」
甲州街道から横道に入り、すぐに南新宿駅のそばについてしまった。ハヅキさんの誘導で、ハヅキさんのアパートに到着。ハヅキさんは荷物を持って、すっと車を降りると言った。
「すぐに荷物置いてきます。本当に行っていいんですよね?」
「もちろん」
まるで映画のように、アパートの鉄製の階段を音をたてて彼女は登っていった。部屋のドアを開けては締める音がすると、ほどなく再び彼女は出てきた。
「早いね」
「だって着替えも化粧もしないですもん」
ハヅキさんを再び乗せると、車を走らせた。山手線内の道もすいている。
「私、隅田川エリアとか、あるいは文京区から荒川区あたりの風情が好きなんですよ」
「さすが日本画を描く人だなあ。本来の江戸の盛り場ですね」
「そう。各務原さんは川向こうでしょ。川向こうは、本来悪い遊びのエリアです」
「あ、やっぱり。僕にふさわしいや」
笑いながらも車は順調に進む。どういうコースで行こう?
「ハヅキさん、永代橋だけじゃ物足りないから、なるべく隅田川を北上して、いくつかの橋を通りましょう。最後はスカイツリーのライトアップを観に行きましょうか?」
「嬉しい。わくわくします」
自分で言っておきながら、なかなか難しいコース設定になった。まず永代橋を渡ったが、裏道を使って今度は清洲橋を渡って戻り、さらに新大橋を渡る。川の手前と川向こうを行ったり来たりする。こんな単純な観光コースなのにハヅキさんはやたら嬉しそうだ。さらに両国橋、蔵前橋、厩橋、駒形橋と進む。さて、吾妻橋の手前に来たが、川向こうの川沿いの道を走る車など1台もいない。私は道のわきに車を寄せてみた。
「ハヅキさん、吾妻橋は歩いて渡ってみようか?」私はこんな酔狂な事を言い出してしまった。彼女は、ぜひ、と言うといっしょに車を降りた。
吾妻橋手前のアサヒ・アートスクエアでは何かイベントの後らしく、ラインティングした階段にはけた人々が歩いていた。
吾妻橋をゆっくり歩いて渡る。屋形船が隅田川をゆっくり過ぎて行く。風もあまり吹いてなくて、寒すぎる事はない。私は、30歳くらい年の離れた女の子を連れて、こんな橋で何をしようと言うのか。思わずフランス映画の『ポンヌフの恋人』を思い出した。
「ああ、きれいですね。私2年前も、この辺で元旦を迎えました」
「恋人と?」
「いや、一人で繰り出して、でもさみしくなって美大の男の子を呼び出しちゃった」
「で、その青年と結ばれた、とか?」
「・・・結ばれたような、結ばれなかったような・・・」
という事は、何かいろいろあったという事だな。一度も幹さんに触れる事のなかった私よりは、よほど何かあっただろう。
「ねえ各務原さん、変な事聞いていい?」
「どんな変な事だろ?」
「もし各務原さんがまだ若くて、まだ仕事に成功してなくて、でもある女性と結婚すれば成功が得られるとしたら、どうします?」
度肝を抜かれた。なんという質問だ。
「・・・それは、君に起こっている出来事だね?」
「自分の事として答えてくれませんか」
「えーと、たぶんね、その女性と結婚するだろうな。それで映画の仕事にどっぷり入っていけるならば、その女性を愛してなくても結婚したと思う。大変失礼な話だけど、僕には当時は女性よりも映画が大事だった」
「ああ、なんかそんな気がしました」
また屋形船が近づいて来る。まわりの人々は、その写真を撮ったり、アサヒ・アートスクエア越しに見えるスカイツリーの写真を撮ったりしている。僕ら二人は川を見つめているだけだ。
「・・・事情を話してくれないか」
「私、迷ってるんです。結婚を申し込まれて。しかもその相手は、ゲイなんです」
またも度肝を抜かれた。
「私は、短歌の会にのような所にも参加していて、そこで知り合った男性がいるんですけど、その人は同性愛者で、すごく頭の切れる人なんです。しかも油絵を描くんですけど、けっこうすごい絵を描くんです。しかも本人はかなりの美青年です。それだけでもすごいのに、その人は実業家の御曹司なんです。なんか映画みたいでしょ」
「その人に結婚を申し込まれたんだね」
「そうなんです。実業家として家を継がなければならないので、世を欺くために偽装結婚して欲しいと言われたんですよ。その代わり、私はいくらでも絵を描いていていいし、好きな男とつき合っていていいと言われた」
「・・・・・」
「でも私はその人、人間として尊敬できるんです」
「なんか、分かる」
「私はその人と結婚すれば、生活には困らない。そして,その人が偽装結婚の相手として私を選んでくれたのも、ちょっと光栄な気がする」
「君を本当に素敵だと思ってるんだと思う」
「そうみたいです。私だから声をかけたんだと言われました。私なら、事情を深く理解してくれるだろうと思ったと」
「でも、踏み切れずに悩んでる」
「そう。彼の希望に応えたい気持ちと、本当にそれでいいのか、という気持ちがぐるぐるしてる」
「当然だよ」
見上げたら、かけた月が出ている。川面にイルミネーションが映えている。質素な身なりのハヅキさんの髪がときどき風になぶられている。
「悩んでいるのは、同じ美大の青年のためかい?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。でも、昨夜彼には相談したんです」
「彼はなんと言ったの?」
「真剣に考えてくれた。実は、私はその彼とは2年前からつき合ってたんだけど、彼には私よりももっと好きな女性がいるんです」
「複雑だな」
「最初から知ってたけど、私から近づいたの。私、かつては男を信用してなくて、男を近寄せなかったのに、2年前くらいから私、おかしくなっちゃった・・・」
「その彼は、他に好きな女性がいながら君とつき合ってたの?」
「そうです」
「男って勝手だな、自分を棚に上げてなんだけど」
「私が誘惑したみたいなもんだから」
「結局昨夜、彼はなんと答えた?」
「ものすごく迷った挙げ句、やはりハヅキが考えて決めるしかないだろう、と言われた」
「君は、彼に止めて欲しかったんでしょう?」
「たぶん、そう」
「でも結婚しても、君は彼とつき合えるんだよね?」
「その通りです。だから、私は何を相談してるんだろう。。でも、止めて欲しかった。だけど、止められても、それでうまく行くとも思えない」
「彼も同じ事を考えたのでは?」
「そうだと思います。私にプロポーズしてる男性から私を奪ってまで、私を幸せにできないと思ったんだろうな。彼自身もアーティストだから、そんな私の人生をまるごと引き受けるような余裕がないと思う」
「彼も日本画科?」
「全然ちがうの。メディア・アートです」
「ああ、お金にならないやつね」
「そうですよ、まさしくそうですよ。私もだけど」
「その実業家男性の誘いを受けた方が生活は安定するね、にべもない話だけど」
「私もそう思う。そうするのが一番いいんだろうと漠然と思う。だって、その実業家の彼の役に立つのも、どこか嬉しいんだから」
「でも、踏ん切れないわけだ」
「うん、気持ちのどこかが、踏ん切れない」
「ちなみに、昨夜の美大の彼は、申し訳なさそうだった?」
「すごく、申し訳なそうだった。・・・でもそのあと、私とセックスして・・・今朝帰った」
「あはは」
また屋形船が通っていった。するとハヅキさんが時計を見て言った。
「各務原さん、2013年になっちゃいました」
「あ、本当だ」
ハヅキさんが不意に私の手を握って言った。
「2013年の最初のわがままです。各務原さん・・・私を奪って、どこかに連れ去ってくれませんか?」
「何をむちゃくちゃな」
「・・・むちゃくちゃなことを言うのは、女の特権です。・・・生まれて初めて、特権を行使しているんです」
そう言うと、ハヅキさんはなんと私に抱きついた。しばらくこうさせて下さい、と言った。私は彼女を軽く抱きしめて、彼女の頭越しに夜景を眺めた。
10数年前、幹ちゃんはどうして女の特権を行使して、私に甘えてこなかったんだろう?甘えて欲しかった。飛び込んできて欲しかった。そうしたら、私の人生はどうなっていたかなあ。いや、むしろ私が、あの時幹ちゃんを奪って去れば良かったんだ。そんなことは分かっていた。・・私が臆病だったのだ・・・
「君のしている事は、AもBも選べなくて、きまぐれにCに飛び込む、という事だぞ」
「・・・分かってます。ごめんなさい。子どもだと思って許して下さい」
ハヅキさん、可愛い人だ。この人は最終的にどう決断するだろう。私の予想では、きっとこの人はその実業家の誘いを受ける。そして、その実業家にも影響を及ぼすような存在になるだろう。ハヅキさんは、私の嗅覚ではただ者じゃない。この人はきっと何か成し遂げる。この人を追いかけて、カメラを回したいくらいだ。
不謹慎だな、また映画の事を考えてる。幹ちゃんの時だけは、映画よりも幹ちゃんが大切だった。ハヅキさんのドキュメンタリーを考えたりしている私は、ハヅキさんを奪って逃げる資格はないのだよ。遠ざかる屋形船を見ながら私はそう考えていた。
※ 【キョーレツナリズム】本編は以下から読めます。
https://note.com/kutaja/n/n98c81cd7854c