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生きがい地獄・やりがい地獄

これはこの物語の主人公の胃袋である。幽門部に胃ガンの兆候が見えるが、本人はまだそれを知らない。これがこの物語の主人公である。しかし、今この男について語るのは退屈なだけだ。何故なら彼は時間を潰しているだけだからだ。彼には生きた時間がない。つまり彼は生きているとは言えないからである。これがこの物語の主人公である。だめだ!これでは話にならない。これでは死骸も同然だ。いや、実際この男は20年ほど前から死んでしまったのである!その以前には少しは生きていた。少しは仕事をしようとした事もある。しかし今やそういう意欲や情熱は少しもない。そんなものは役所の煩雑すぎる機構と、それが生み出す無意味な忙しさの中で、全く磨り減らしてしまったのである。忙しい。全く忙しい。しかしこの男は本当は何もしていない。この椅子を守る事以外は。そしてこの世界では地位を守るためには何もしないのが一番いいのだ。しかし一体これでいいのか。一体これでいいのか!この男が本気でそれを考え出すためには、この男の胃がもっと悪くなり、そしてもっと無駄な時間が積み上げられる必要がある。(黒澤明「生きる」)

これは、映画、黒澤明「生きる」の冒頭ナレーションである。素晴らしいと思う。冒頭のナレーション部分だけは。
この冒頭が物語のクライマックスであり、あとはひたすら通俗的で一方通行な展開が続く。まるで、紙芝居を延々と見せられているかのように平面的なのだ。
もちろん黒澤明が偉大な映画監督で、「隠し砦の三悪人」や「天国と地獄」がまごうことなき大傑作であるのに異論はないけれども、一方で、黒澤映画の特徴として、「生きる」のようにヒューマニズムとやらを掲げたときには途端に凡庸になる。「生きがいを持って、やりがいを持って、がんばりましょう」みたいな、小学生の標語になる。なんと言うか、絶望的に浅い。
聞くと、物語はトルストイの短編小説「イワン・イリイチの死」を下敷きにしていると言う。私はロシヤ文学なぞ嗜んではいないが、直感的に思った。かのロシヤ文学がこんなに浅いはずはない。
私は「イワン・イリイチの死」を読むことにした。100ページほどの短編で、手に取りやすかったのもある。
果たして、読んだ結果、見込んだとおり、「生きる」とは全く違う、それはそれは深い物語だった。素晴らしい。共通しているのは一人の公務員の死を描いているという点と、冒頭、葬式から始まるという物語の枠組みだけだ。と言うか黒澤さんよ、物語の枠組みだけ流用して、よくぞここまでメチャクチャにしてくれたな。

そもそも人物造形が致命的に違う。志村喬扮する渡辺はミイラという仇名の、死んだように生きる男である。対してイワン・イリイチは権謀術数と社交に長けたリア充エリートなのだ。むしろ生き生きとし始めてからの渡辺のほうがイワン・イリイチに近い。そんなリア充エリートたるイワン・イリイチが死に至る病を機に、周りの称賛はまやかしであることを知り、虚栄心と功名心で積み上げた自分の人生の愚かさに気づく。死の間際に人生の真理に辿り着くのである。

葬式のシーンの周りの人々のリアクションもまた対称的である。イワン・イリイチの同僚は、彼亡き後の人事のポストにしか興味がない。彼らもまた、かつてのイワン・イリイチと同じ虚栄心に満ちた俗物なのである。対して渡辺の葬式では、公園を造り上げた渡辺の偉業を皆が口々に礼賛するのである。

「生きる」の映画評で、興味深いのがあった。渡辺の公園は黒澤にとっての映画であり、それも死後にまで人々から称賛されるものを形として残さなければ人生に意味はないのだと。なるほどなと思った。しかし、黒澤の礼賛する生きがいややりがいこそが、イワン・イリイチが、トルストイが否定した虚栄心、功名心そのものではないのか。

以前、お笑いコンビ髭男爵の山田ルイ53世が雑誌のインタビューで、「1億総活躍社会って相対的にみんなあまり活躍しないことになるわけで、むしろ人はみんな活躍しなきゃいけない、みんなキラキラ輝いてなきゃいけないみたいな社会の圧力が一番怖い」って話をしていて、この人は人の痛みの分かる素晴らしい人だなと思った。
よく、映画を批判する常套句として、「人間が描けていない」といった言い方をするが、人を描く、人を見通す視点は、黒澤明より髭男爵のほうが上である。

私もまた、渡辺やイワン・イリイチと同じく一人の公務員である。これまで、仕事に生きがいを持って、やりがいを持って、懸命に働く同僚を見てきた。そして、そんな彼らが世界を悪くするのは見たことがあるが、そんな彼らが世界を良くするのを見たことがない。
嘘だと思うだろうか?しかし全国に乱立する公共事業で建てられた無用の長物が、だれかの生きがい、やりがいの果てに造られたのだとしたら?虚栄心や功名心は人の目を狂わせるのだとしたら?

本稿のタイトルは生きがい地獄・やりがい地獄である。本当に人生には、生きがいややりがいが必要なのだろうか。そんなものは虚栄心と功名心に彩られたまやかしなのではないだろうか。

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