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続・この新しい朝に

10年以上前、ブログ論壇を先導した先駆的ブロガーである赤木智弘氏は、「希望は戦争」と言いました。
赤木氏の主張自体、ムチャクチャなものが多いんですけど、少なくとも、同時期に活躍した同じく先駆的ブロガーのちきりん氏(通称「そんじゃーねババア」)に比べたら100倍好きでした。
ちきりん氏の何が受け付けないかって、大上段に構えて正しいことを言うだけなんですよね。なのに、「そんじゃーね」に集約される砕けた語り口で、池上某みたいな親しみやすさを演出する。その姑息さ。それだったら、ムチャクチャだけど切実さだけは伝わる赤木氏の方を信用するよと。「希望は戦争」って、挑発的なキラーフレーズを思いついただけでも十分すごい。言ってることは、今で言うグレート・リセットと同じなんですけどね。

まあともかく、なんで赤木氏の「希望は戦争」の話をしたかと言うと、前回、ミニマリスト(通称「ヤスマニアン」)にとって、コロナ禍は暮らしやすくなったと言いました。
「会食禁止」「在宅ワーク」といったこと、ミニマリストにとっては暮らしやすいことが、信じられないスピード感で決まっていく。
失礼承知で言います。コロナ禍は快適だよなと。グレート・リセットとしての新型コロナウイルス。まさに「希望はコロナ」。
しかし、コロナとミニマリストの蜜月は、長くは続かなかった。

それはなぜか。みなさんご存知、ワクチンパニックですよね。
このデリケートな問題、どう話そうか迷いました。
基本的に、この件について、どちらが正しいとか議論する気はなくて、論争する気はなくて、前提として、社会総体的な正しさというのはきっとないんだろうと。
打つべきと判断したその人が打つのは、その人にとって正しいのであろうし、同様に、打つべきでないと判断したその人が打たないのは、その人にとって正しいのであろうと。それを超える正しさというのはきっとないんだろうと、そう思うわけです。
人類が初めて直面する、とかひとまず置いといて、あえて言うなら、子供を通わせるのは「公立」か「私立」かとか、住むなら「持ち家」か「賃貸」かとか、そんな類いの話と同じような、個々人の判断に属する話であって、まあそんなテーマで、バカみたいな論争してる人も腐るほどいますけど、要はその正しさというのはその個々人次第であるだろうと、そう思っています。

それを前提にして、聞いていただきたいのですが、僕はひとまずワクチンを打たないという判断をしました。
論争する気はないので、その結論に至った経緯をつまびらかにする必要はないとは思うのですが、まあ一応簡単に話します。
当然、打つメリット・デメリット、打たないメリット・デメリット、いろいろあります。そしてもちろん、僕がいかなる局面においても打たないという判断を下したというわけでは全くありません。
ひとまず打たないと。見送ると。しかるべきときに、いずれ打つだろうけど、今ではないと。重視したのは、ワクチンは重症化を防ぐのに劇的な効果を発揮するが、感染そのものにはそれほど効果が見込めない点。それと、もちろん副反応の問題と承認のプロセス。
これが例えば、日本国内の感染者が1日100万人、重症化率10%とかだったら、さすがに打ったと思います。けれども今の状況を見て、極端な話、コロナで死ぬ確率が副反応で死ぬ確率より圧倒的に高い、とまでは思えなかった。

これはもう完璧に100%、超個人的な考えですが、僕はその選択にあたって、愛すべき家族がいる中で、まず死なないということを優先順位の第1位にしました。そう考えると、コロナで死ぬ、ワクチン副反応で死ぬ、この2つには決定的な違いがあります。
コロナで死ぬ確率はゼロではない。どれだけ感染対策をしても、ワクチンを打ってもゼロにはできない。自然の脅威が相手ですから。その点、ワクチン副反応て死ぬ確率はゼロにできるわけです。バカみたいな意見ですが、打たなければ、副反応で死ぬ確率はゼロなんですよ。選べるんです。自分で選択できるんです。
であるならば、生き延びるという1点を選択の核にしたとき、ひとまず自身の選択で片一方の可能性を潰す、ゼロにするのが今の状況下にあっては最良であろうと。確率論以上に、自分で選べるという点を重視したということ。そしてそれがまた、仮に死んだと仮定したときの、残された遺族の諦めの度合いにも、僅かながら関わってくるだろうと。身も蓋もない言い方をするなら、コロナで死ねば、残された遺族は自然界を恨むことになるけれども、副反応で死んだら人類を恨むことになる。
それに、科学技術は日進月歩ですから、待てば待つほどワクチンの精度は上がるわけで、であるならば、いずれ打つにしても、今ではないだろうと考えました。
そういう考えで、僕は新型コロナワクチンをひとまず打たないという選択をしました。

ワクチンパニックをきっかけに、明らかに風向きは変わりました。新型コロナウイルス来襲のフェーズから、新型コロナウイルスの狂騒のフェーズに変わりました。
もっとも、早い段階から「集団免疫」とか言ってる時点で、イヤな予感しか、していませんでした。僕の人生の経験上、「集団」ってワードがでたとき、ロクなこと一個もないんですよね。子供の頃、「集団行動」が苦手ですねって、何万回、言われたことか。

人間関係の総量を無駄なものから削っていくミニマリスト(ヤスマニアン)にとって、楽園だったはずのコロナ禍は、ワクチンパニックを境に、一転、嵐になりました。嵐の中、僕は「隠れキリシタン」のように、息を潜めて暮らしました。
最悪だったのは、第5波から第6波のあいだですね。滑稽なのが、感染者が減れば減るほど苦境に陥るんですよ。
飲み会が復活する。どうでもいい出張が復活する。go toトラベルとかgo toイートとか復活して、接種証明があれば何割引きとか。そういう話題がでるたびに問い詰められる。社会がワクチンを口実にコロナ前に戻ろうとすればするほど、苦しさが増す。追い詰められる。

何度も、いっそのこともうワクチン打った方が楽になれるんじゃないか、そう思いました。もしかしたら、20代、30代の僕なら同調圧力に負けて、打ったかもしれない。
でも、どうしても納得できませんでした。なんで命懸けで空気を読まないといけないのか。

あるとき、奇妙なことに気づきました。不思議なことに気づきました。何度か未接種を咎め立てられる経験をしましたが、そういう咎める人に限って、ワクチンに対する考えが実は僕とほとんど変わらないんですよ。そういう人に限って、ワクチンに実は不信を抱いていて、不信を抱きつつ、さっき言ったように、空気を読んで、ワクチンを打った人たちなんですよ。
結局、ニホンってみんな苦しめ社会なんですね。この俺の味わった苦しみをお前も味わえと。一人だけ苦しみから逃れ、苦しみを味わわないのは卑怯だと。戦前と一緒で、人一人の考えがどうあれ、みんなが味わう苦しみは、一人残らず味わわなければならないと。
前に言いましたが、かつての飲み会の席での滑稽な光景、それと同じだなと。まだミニマリストにたどり着く前の、お酒の飲めない、かつての僕がお酒を注いでいたのと同じことだなと。
そう、お酌をしていたかつての僕が、未接種の僕を咎める彼なんですよ。そのことに気づいたときに、僕は体の力が抜けて、唐突に、仕事を辞めようと思いました。そして彼らを責めるのはよそうと思いました。なんと言うか、この組織は、この社会は反論するに値しない。
僕は令和5年1月に、仕事を辞めることにしました。

辞めることを決めたあと、不思議なことが起こりました。
食事が美味しいんです。朝ご飯を食べていて、びっくりしました。白ご飯ってこんなに美味しかったんだと。
外に出てみました。びっくりしました。空が美しいんです。その平凡な青い空が。その平凡な白い雲が。外の世界が美しいんです。組織から離れ、社会から一定離れて、初めてそのことに気づいた。僕は何十年ぶりかに泣きました。
そしてそれから、この新しい朝に、この新しい世界で、上を向いて歩いて行こうと思いました。
(令和5年1月)

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