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組織運営の技術

組織運営の技術-不平等条約

 

 江戸時代は身分格差の固定した社会で、人々は固定された身分や格に縛られた生活を余儀なくされていました。しかし、徳川の江戸幕府末期になるといずれ「身分制度」は滅びるだろうといわれるようになりました。米の生産量(石高)を経済の基本として、社会を支配する侍階級とその他すべての民の身分が農工商などに固定されていたのです。江戸時代の幕藩制度は貨幣経済の発達とともに「身分制度」の矛盾を抱えることとになりました。農工商に属する人たちが士よりも金銭的に裕福になってきたからです。

 江戸時代の日本には、百万石から1万石まで大小約300の藩があり、藩には世襲の大名がいました。大名は自治権をもった首長として藩を統治していましたから、各藩はその一つひとつが国のような存在といえました。藩主のことを一国一城の主と呼びましたし、初対面の方に“お国はどこですか”と聞くこともありました(播州とか、上州とか)。「身分制度」と「移動制限」がある幕藩時代の藩は国と同様の意味を持っていたのです。

幕藩体制のもとで大名家は家系と石高によって格が厳密に決まっていましたから、大名間での話し合いや約束事を結ぶときや業務上では、家の格は非常に重要な要素でした。藩と藩の約束は今の国と国との条約と同じような扱いでした。強い側が弱い側に合意を押し付けるようなことが普通に行われていたようです。双方に格の違いはありますが交渉はあくまで対等で、という話し合いが持たれることはありませんでした。統治を力に頼る幕藩体制のもとでは外交の基本となる対等の立場で交渉するという概念は育っていなかったのです。

幕末に日本を訪れた西洋人は、日本という国と日本人が非西洋諸国にあって唯一西洋に比する文明と教養を持っていたことに驚き認識していました。また、藩(国)はヨーロッパにおける公国のような存在と理解していたようです。当時日本には京都に天皇と江戸に徳川将軍が存在していましたので、天皇が元首で将軍が首相と理解しました。したがって、条約交渉は将軍相手に文明国同士が対等の立場で交渉し合意点を見出す西洋式の外交が必要と感じていたようです。

西洋諸国の間では条約(契約)はお互いの利益を守るために、立場が違い明日はいないかもしれない者同士が対等の立場で交渉して結ぶ約束でした。しかし、250年の長きにわたって安定した格差社会を運営してきた徳川幕府は発達した文明と高い教養を持っていましたが、西洋諸国が押し寄せてきたときに対等の話し合い(交渉)をするすべを知りませんでした。結果として、黒船が来航して力を誇示されると、その恫喝におののいて言われるままの条約を結ばざるを得ませんでした。幕末に押し寄せてきた西洋列国は、日本は脅せば言うことを聞くということを知ってしまったのです。

現在の外交においても相変わらず相手の力に忖度する態度が見えます。大国に対しても小国に対しても対等に交渉しているようには見えません。外交や組織運営において違いがあって対等という基本的な概念に沿っているようには見えないのです。また、行政では力(数)による運営が目立つようです。お互いの違いを認めたうえで対等の話し合いをする能力に欠けているのか、対等に議論することが交渉の始まりであることを理解していないのかもしれません。

江戸時代に完成あした力による統治手法で、対等の立場による話し合い(交渉)を許さなかったことは、日本人のDNAに深く刷り込まれたのかもしれません。現在でも多くの組織が上下関係をベースに運営しているのは、組織の構成員は対等の立場で参加しているという基本的な理解が欠けているというよりも、責任ある立場の方たちが認識していないことが多いのかもしれません。その結果、誰もが業務上は対等の立場で参加しているという基本的な理解が組織の責任者にないことが、粗末な組織運営を招き今の3周遅れを招いているとも言えます。

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