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幼少期の事⑤小学校5-6年 悪意の氾濫

さて、とにもかくにも私のいじめの復讐は小学4年生で終わりを告げた。
私は今でもこの復讐の犠牲者には何ら謝罪の気持ちや、行動に対する後悔は全く持ち合わせていない。
受けて当然の復讐を受けた、それ以上でもそれ以下でもない。
そう信じている。この復讐が無ければ私は一生やられっぱなしだったかもしれないし、私は自殺を成功させていたかもしれない。
生きるために必要な事であったと確信している。

しかしこの5-6年生のころの話は違ってくるのだ。
私は取り返しのつかない過ちを犯した。

私の通っていた小学校は大きく低学年、中学年、高学年の切り替わりのタイミングでクラス替えと担任の交代があるのが原則であった。
もちろん産休等のタイミングで例外はあり得たが概ねそのように運営されていた。
つまり5年になるとクラス替えと担任の交代があった。
3-4年のころの私の悪名は、一部学年の他のクラスにも広まっていたらしく、新しいクラスでも特に名前をネタに虐めに逢うようなことも無かった。
このクラスで私はS君と出会う事になる。
始めは普通の友達だと思っていたと記憶している。
だが今にして思えば当時から少し歪な関係ではあったのだろう。
なぜかS君は私に敬語で話をしていた。
とはいえ、たまたま当時10時台だったと思うが比較的遅い時間にやっていた「ギミア・ぶれいく」という番組内の「笑うセールスマン」というアニメをお互い見ており意気投合したのだった。

もう一人内気な感じのF君とも席が近かった事もあり、3人で話す事がよくあった。
そんな平穏に見えたある日、S君がF君の事を気に入らなかったらしくF君の事を「あいつって喪黒福造に似てません?つーかむかつくんで虐めちゃいましょうよ」等と、言ってきた。
喪黒福造というのは「笑うセールスマン」のキャラクターで、主役であるがまぁ基本的に良いやつではない。

私は元から媚びてくるS君を正直なところ心地よく感じていたのだと思う。
断って子分的立ち位置からS君が去るのもつまらなく思っていたとも思う。
そしておそらく、3-4年生のころの復讐としての虐めにより既に私の中の闇が目覚めていたのだとも思う。
この話に乗ったのだ。
乗ったと言っても、私が拒否すれば恐らくS君はそれ以上何かする事はなかったであろう。したがって今にして思えばS君もろくなやつでは無い事は別としてこの後の行動は当然私の責任である。

そしてさらに性質の悪い事に私は4年生のころの学級会を経て、ばれないようにやる、という知恵も身に着けてしまっていた。
F君に対する苛めが始まったのであった。

虐めというのは恐ろしいものである。
闇を抱えた者にはそれは、恐らく快楽にすらなってしまう。
F君の痛みなど気にもならず、ただ壊れた機械の様に苛め、その瞬間恐らく快楽を感じていた。
もちろん当時はそんな自覚は無く、何ならS君に妙な態度をとっていたF君を懲らしめる、くらいの意識であったように思う。

しかしそんなことはどうでも良い。
F君には、お前喪黒福造に似てるな、から始まり、嫌がっても何十回も何百回も言い続ける。
上履き、絵具、防災頭巾、考えうるものはすべて隠す、捨てる。
一緒に遊ぶ範囲でバレない様な暴力も加える。
恐らく相当参ってしまうであろう苛めを行った。

F君の家は賃貸住宅の母子家庭で弟がいるという環境であった。
だが当時はそんな家庭の置かれた環境を想像するなどと言う頭も無く、お構いなしに虐めていた。
ただ、思い返せば、そこまで知恵が回らなかったのは幸いでもあった。
もし母子家庭、賃貸、貧乏などと言うところに知恵が回っていたら、それは同情ではなく、さらなる苛めのネタにしか成らなかったであろう。
もちろん自分の家も母子家庭ではあったのだが、当時は自称華族の出自で、農民の子と話などしなくて良い等と私に宣っていた祖母と、敷地面積100坪を超える家で同居しており、貧乏という様な自覚は無かったのだ。

この虐めは5年生のほぼ始まってすぐから、1年は続いた。
だがF君の精神に限界が来たのだろう。登校拒否気味になる事で終わりを迎えた。
正直切っ掛けは分からない。
誰かに止められたわけでも無い。
自責の念の駆られたかと言えばそうでもなかったと思う。
だが急に飽きたのだ。
ある一面では自殺されたら寝覚めが悪いというような、気持ちもあったかもしれない。
私はS君に、苛め終わりな、と告げ、F君への虐めは終わった。
S君はその後私とは疎遠になった。

F君は相当苦しかったと思う。
今となってはどこで何をしているのかさえ分からないが、もしかするとこのいじめがトラウマになって、精神を患っている可能性もあるだろう。
3-4年生のころの復讐のターゲット達とは違い、少なくともF君は私に害を与えた事はなかった。
これは私自身の人生に生涯にわたり記録すべき、過ちであった。

しかしF君は一時登校拒否気味になっただけで学校に通い続けた。
強かった、という事もあろうが、氷河期世代の子供時代というのは、1-2年生のころの私同様、登校拒否などと言う事が簡単に子供に対して認められる様な価値観は社会に存在しなかったのである。
来るしかなかった。逃げ場も無いのに。
就職氷河期世代というのは苛めにあっても逃げる事さえ基本的には許されない子供時代を過ごしていたのである。

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