[一語一会 #19] スイミングスクール
都市に住んでいる子たちならよくあることだと思うが,私も小学生のころスイミングスクールに通わせてもらっていた.
そのおかげで,ここ8年くらい泳いでいないと記憶しているが,フォルムの劣化を差し引けば,今もちょっと水に慣れればすぐ泳げると思う.バタフライは怪しいかもしれないが,少なくとも自由形(クロール),背泳ぎ,平泳ぎはできるはずだ.
小中学校での体育の成績が大変なことにならなかったのは,水泳を習っていたお陰も一定あったのだと思う.
ただ,小学6年生のとき,一番上の級に上がってから割とすぐにそのスイミングスクールをやめてしまった.思えば,自分の意志を尊重してもらって歯医者に行かなくなったときも同じことを考えていた気がする.一番上の級に上がってからは特に,タイムもそれほど伸びないし,そもそも運動することが得意でなかったし,泳いでいる時間というものがあまり好きになれなかった.それよりも,Nintendo DSでゲームをしている方が楽しかった.それだから,時間の無駄に思えてサボることも増え,最終的には小学生の最後まで続けられずに辞めてしまったのだ.
自分の気持ちをはっきり言えない,言い換えれば優柔不断なタイプなのだが,やると決めることと比較すると,やめると決めることはまだ時間がかからない方だと思う.それでも,やりたくないなと思いながら泳ぎに言っていた時期があったという記憶はあって,なかなかスパッとはやめられないのもまたしかりなのだ.
多少の苦痛には耐えられるし,続けることができるわけなのだが,そういう性格的な部分は今もあまり変わっていないらしく,両親の思いに関係なく自分でやるかやらないか,続けるか続けないか決められる物事が増えたにもかかわらず,結局一度始めて馴染んでしまったことについては,断ち切り時を見失いがちだなと振り返って思う.
私はこれまで自分の思いがのっているもの,これまでで言うと例えば勉学だが,そういうものを努力・継続して何かに到達することが,私の才能の一つだとの認識はある.その裏返しとして,やめることへのためらいが,デメリットとなることがしばしばあるということだろう.一日の時間は限られているし,続けてたいことを続けて,かつ,自分をトランスフォームしていくことも考えたときには,やはり,やめるべきことにきっぱり終止符を打つということが必要になってくる.
水泳,特にスイミングスクールにおける水泳では,泳いでいる途中にきっぱりやめるということは,決まった距離を泳ぎ切って初めて価値が出るという点でも,後ろの人につかえたりする点でも,あまり好ましくはないことではある.しかし,もう私は通うのをやめたのだ.
別に,始めたことに囚われることはないのだから,振り返りの深みを決断力に転化できるよう意識していきたいと思う次第だ.
最後に補足なのだが,スイミングスクールをやめて,泳ぐことが嫌いになってしまった,というわけではない.むしろ特に最近は趣味としてはいいのではないだろうかと思い,余裕ができたら運動がてらプールへ行こうかなと心の中で画策しているところである.
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