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[一語一会 #13] アペガの像

正直に白状すると,この言葉について書くという今この瞬間まで,この言葉についてまったく存じ上げなかった.

アペガの像は,鉄の処女という器具(画像の通りである.note上の提供者に感謝申し上げたい.)に類似したもので,拷問や処刑のための人形・像と言われている.Wikipediaを見ていると,実際に使われていたかどうかは怪しいようだ.(詳しいことを書くと何より私が怖いので,ここでは触れないでおこうと思う.)

さて,アペガの像の詳細に触れなければあまり書くことはないので,私の妄想にお付き合いいただこうと思う.

そう,よく妄想をしているのである.
例えば,拷問具にかけられているシーンを見ていて(個人的には手塚治虫先生のブラックジャックでのシーンが記憶に残っている),それを自分が受けたらどうなるのだろうか,とか,仮に何か罪を犯して死刑になって急に連れ出されて絞首紐(?)にかけられたりするときの気持ちはどうなるのだろう,とか.

そしてその先のことを考える.つまり,私が死んだらこの今私が知覚している世界はどうなるのか?ということだ.
例えば,お葬式にどれくらいの人が来てくれて,どんな言葉をかけてくれるのだろうか,お墓参りに来てくれる人はいるのだろうか(自然葬もありだなとか最近は思っている),お墓がなくなっても(もしくはなくても)私のことを心に留めて,すなわち私を心の中に生かしてくれる人はいるのだろうか,などということである.

しかし,「科学」のことをある程度知っている私たちが現実的に考えれば,これらの答えは実際には一定明らかで考えを及ぼす必要もないだろう.

厳密に言えば,私が死んだら(ないし意識が永続的になくなったら),世界は存在しない,のだ.もちろん,私がもともと生きていた「世界」は物理的に継続していく,というのが今生きている私が知覚している中での帰納的な事実ではある.

しかし,世界を作り出しているのが私の意識である以上において,私が死んで意識がなくなったときに,その世界もなくなるのである.(だから,私が死んだあと,私に関連している人を含む「世界」がどうなろうと私の世界には何ら関係ないというのが,前掲の種々の問への間接的でありながら直接的な答えになる.)

こうして考えているうちに,今自分が生きている,意識を持っている,そしてそれがいつかは失われてしまうものであるということに対して,怖れおののき,眠れなくなってしまうこともよくあった.

今はそういう非生産的な思いの錯綜を何とか抑えられるようになったし,いかに今を生きるかということを少しは真面目に考えられるようになったと思うのだが,祖父母や身近な人,ひいては今で言うとウクライナやロシアで戦争によって亡くなる人,また,その他の紛争に命を奪われる人に,思いを馳せて悲しくなってしまうこともある.

それでも,今に,自分を含めて生きる人に,焦点を当てて取り組んでいくことが,きっと自分の周りの人の生も輝かせるし,理不尽な死を減らすことにもつながるし,遠くはアペガの像のような拷問具などもいらなくなる社会をつくれるようになるのではないか,と信じている.

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