[一語一会 #24] 社会不適合者
極端だけ見ても現実を反映していることは少ない.
ということは,様々な概念・言葉について言えることだろう.
もしかしたら,社会不適合と言われる人,ないし自分で言っている人には,このことは理解してもらえないかもしれないが,100%社会不適合であるということは非常にまれなのではないかと思うし,社会に完全に適合している人というのもなかなかいないような気がするのだ.
例えば,おそらく私は社会不適合な方だと思う.特に初対面や,あまり接点がない人に対しては,シャイで寡黙な方だから,口頭のコミュニケーションには困るし,割と一人で行動するのが好きで,共同作業においてもやってくれてるのを傍観するか一人でできる作業を割り当ててもらうということがよくあることからも,協調性を感じ取られに行くいと思う.一方で,個人的には家族やある程度慣れ親しんだ人との関係はうまくやっていると思うし,末端で協調性がなくても,法律や交通ルールの順守はある程度真面目にやっているという点で,なじんでいる面もそれなりにあると認識している.
さて,最初に極論は現実と異なってくるよね,と書いておきながら極言しようと思うのだが,基本的に社会で生きていない人はこの世の中には存在しない,はずである.なぜなら,だれしも,ものを食べないと生きることができないし,年中通して何かを全く着ないというわけにはいかないはずだからである.そういった,食料や衣服というものは誰かが生産したり整えたり届けたりしてくれるものである以上,私たちは社会のネットワークの中で生きているということを否定することはできない.
逆の極限はおそらく無限なのだろうが,まぁそれを踏まえても,やはり自己認知,自分と社会のかかわりがどのようであるかに関する自分の認識によって変わってくる部分があるのだろうと思う.
その点では,社会不適合であることと,社会的であることの間で,自分がどのくらいの位置にいるのか,ひいては,どのような点で社会不適合でどのような点で社会への適合をしているのか,ということを認識すれば,より建設的な言葉になることだろう.この論理は,もちろんある程度は一般化できるはずだ.
ただ,自分にとってなにが大事で,なにが大事でないかを見極めることを忘れてはならないのだと思う.つまり,社会に適合していることに重きを置くのなら,それくらい丁寧に思考をする必要があるし,そうでなくて別の何かならそちらに関して重点的に思考のキャパシティを割いているのが望ましいように思う.だから,社会不適合だと思う人も,社交的だと思う人も,それに必ずしも縛られる必要はないのだろう.
最後に,社会の寛容さは重要だということは強調しておきたい.社会に生きる人として望ましい人物像というものが暗黙のうちに想定されていたりするだろうが,それぞれ個々が大切にしていることに違いがあるように,私たちはその「常識的な」ものさしとは違うものさしがあるということを理解して目の前のことに取り組まなければならないと思う.
幅は広くいよう.
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