エッセイ IKEAにシャチハタはあるのか
これは私が生きていた頃の話。
その日の仕事が終わって、ふと頻繁に使うシャチハタが薄くなっていることに気付く。住んでいる地域では星川という苗字は珍しいらしく、見つけた時に買っておかないと無くなってしまう。
普段は来ないエリアに来ていたので、せっかくだから知らないお店で食事を済ませつつ、シャチハタを買って帰ろうと思い立った。急速に発展したエリアなので、新しくて大きな店舗が知らぬ間に増えている。青と黄色の巨大な建物、IKEAが目に入る。オシャレな家具で話題になっていることは知っている。せっかくだから寄ってみるか。そんな軽い気持ちで、私は最初で最後のIKEAに入店した。
オシャレなホームセンターだろ?軽食屋が中にあったらラッキーだな。程度の認識で入店した私へ、デカいカートが威嚇してくる。俺が欲しいのはシャチハタだからカートは要らないよ、と進んでいく。順路の案内がある。順路?ホームセンターに順路?注文の多い料理店か?この違和感を覚えた瞬間に引き返せば良かったのだが、その判断は出来なかった。
入り込むと、想像通りの椅子や机、ベッド等の家具が並ぶ。内装もオシャレというか、非日本感がアトラクションのようだった。買うことはないが、サンプルを眺める。ペロ……?ヨックモック……?
これがジョジョの奇妙な冒険だったら「ゴゴゴゴ」と効果音が鳴っている。
何か『マズイ』
俺の知っているはずの物が並んでいるのに、俺の知らない単語が並んでいる。なんだ?何をされた…?バッ…っと来た道へ視線を向けるが、「順路」の表示。引き返せない。入り口からはデカいカートがゆっくりと前進し、キッズ達も威嚇するように馬鹿騒ぎしている。
覚悟を決めた私は、全身を警戒させながら前進する。ずっと知らない単語が続くし、とてもシャチハタがある空気ではない。そもそも、シャチハタがあったとしても知らない単語に変換されていて気付けないのではないか。ゆっくりと進みながら、喉の渇きに気付く。もう何キロ歩いたか分からない。窓が無いので時間の経過も分からない。この辺りから「死」を意識し始めた。
朦朧とした意識で進むと、広い空間に出た。食料の匂いがする…!見慣れない出店が出現し、ジュースのようなものとパンのようなものを買えた。奇妙な空間なのに日本円が使えるのはありがたい。おかげで少し冷静になった。ここはオシャレなホームセンターではない。完全に異世界だ。
シャチハタがどこにあるか分からないし、こっちの世界で何と言えばシャチハタを意味するのか分からない。店員に声をかけるのが怖い。全く知らない言語が飛び出してこちらの気が狂うのではなかろうか。考えてみれば、青と黄色の建物も異質感があった。本質はダンジョンに近いのかもしれない。
これは完全に私の悪い点だが、好奇心を刺激されると割に合わないリスクを無視して進んでしまう。この異世界を探検してやるぜ、と謎のモチベーションに駆られ来た道を戻る。必ず、シャチハタを買って脱出して見せる。武器は何も無い。健康な身体と勇気だけである。
結果、私はシャチハタに辿り着くことはなく、食料があった出店に戻ることも出来ずに彷徨い続け、絶命した。今でももしかしたら、あのIKEAを歩き続けているのかもしれない。
これは私が生きていた頃の話。
完