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エッセイ 人生の/麻雀の/順位を下げる手を打てるか?

「その手、順位上がらないよね?」

学生時代、麻雀を教えてくれと頼まれた私が友人へ伝えた警句。「終盤まで常に一位を目指した手を打ち、どうしても難しいと判断すれば一つ順位を上げることを目指す。」これは恐らく一般的な麻雀では正しい考えである。偉そうに語る私も、麻雀雑誌から学んだ概念を拝借したにすぎない。今はどうか分からないが、当時は主流の考え方だった。

麻雀を人生に例える人が多い。最初に配られる手牌もその後の進行も運が絡む。しかし正しい取捨選択を繰り返すことで良い方向へ向かう確率を上げることができる。

人生には麻雀と違って順位は無いが「何位を目指して生きるか」なら存在すると思う。私が失敗した部分を文字に残すので、今苦しんでいる貴方と、いつか苦しむ貴方の参考になれば幸いです。殴り書きです。

『麻雀のココって人生に似ているかもね』の話をします。麻雀を知らない方にも何となくイメージが伝わるよう努めます。

夢のない麻雀打ち

麻雀はどんなゲーム?をなるべく端的に書きます。

・牌(カード)を1枚引き、1枚捨てる。これを繰り返し自分の手牌(手札)を良いモノへ変えていき、役を作れればアガリ。得点になる。綺麗な手を揃える程点数が高いが、運か時間が必要。

・得点をもらえるのはアガリをした1人で、他の参加者から得点を奪い次のラウンドが始まる。その時点で手牌はリセットされる。

・4人で8ラウンド戦い1位〜4位が決まる。

・終了後、1位が大きくポイントを得る。2位は収支が僅かにプラス、3位4位はマイナス。

・1位の得点ボーナスが大きいので、1位と4位を同じ回数取っても収支がプラスになることが殆ど。基本的には参加者は1位を目指すゲーム。逆に「今の順位でいいや」と早々にアガリを目指すと他の参加者は自分の順位を上げられなくなる。アガリを作るスピードが要求される。


基本は1位を目指すゲームなので、ラウンドが後半になるほど、自分の点数が低いほど「無茶」をしないと1位を目指せなくなる。

60歳からプロ野球選手を目指すのは難しいのと一緒で、早いうちから準備していた方が当然成功しやすい。序盤から、一手目から懸命に最善手を探る。それが麻雀の鉄則だと思う。人生もそうだろう。子供の頃から野球に親しみ、良い環境に居た方がプロになる可能性は上がる。

苦労は若いうちにしておけと言うが、この言葉には実益がある。無茶のリカバリーが効きやすいこと、人生の後半まで役立つ知見を得やすいこと、そして自分の適正や立ち位置、現実を知ることができる。

自分はプロ野球選手になるんだ、と希望を抱いて野球クラブに入った少年が「あ、自分は運動音痴だったんだ」と知り、天才と持て囃されていたはずの自分がレギュラー入りできない高校に入り、プロの中でもまだ上が居るのかと本物を目の当たりにする。どの分野でも、何歳になっても発生し得る現象だろう。

夢を捨てずに努力することは美しいが、自身の実力を客観視することも同じくらい静かに美しいはずだ。しかし世間はそれを美しさとは見做してくれない。そのくせ、ある程度の年齢になると「お前は現実が見えていない」「あいつは口ばかりで結果を出せていない」と急に冷たく刺してくる。


麻雀が好きで、どうしても学生のうちに雀荘アルバイトを経験したかった私は、初めてのアルバイトに雀荘を選んだ。ボロボロになりながら麻雀を打った。常連のお客さんに言われたのは「若いのに、渋い打ち方するね」「夢のない打ち方だ。苦労人か?」

半分はジョークと社交辞令、もう半分は適切な分析だ。頭では1位を目指すべきだと分かっている。リスクを負うべきだ。しかし他の麻雀打ちよりかなり早い段階で、2位を盤石にするアガリをしてしまう傾向にあった。大きく負けることがないが、勝てない麻雀。若い頃から世の中を分かったような気になって、自分は要領よく生きていますよと飄々としながら結局何かを成す力は無い。そんな弱い、夢の無い麻雀を打っていた。


ステージが下がる


自分は中学生の頃には「心理学を学び、カウンセラー的な仕事をしたい」と方針が固まっていた。早熟だったと思う。高校時代、行くつもりだった専門学校が潰れたので遅めに大学入試対策を始めた。まぁなんとかなるだろう、と甘く見ていた。大学で心理学を学んで、その業種で働く自分をなんとなくイメージしていた。

1回目の大学合格発表、自分の番号は無かった。「あ、大学に行けないかも」と現実感が出た。マヌケな話だ。これくらいの勉強でまぁ受かるかな、と舐めた姿勢でいたツケだ。いやいや自分は元々専門学校に行くつもりだったし、と自分を誤魔化し、滑り止めの学校も用意した。そこで初めて「俺は入ろうとした大学にも行けないのか…?」と。とても嫌な、ぬるくて重い泥のような不安感が出た。

私が行こうとしていた大学は複数回入試チャンスがあり、結果としては補欠合格の形で留年せずに合格した。電話で「貴方は合格しました」と告げられた時の変な感じは今も覚えている。不合格でしたけど…?としばらく会話が噛み合わなかった。嬉しいはずだが、あの嫌な泥みたいな不快感が勝っていた。俺は今後の人生で、あぁいう思いを何度もするんだろうか…と。

自分はこんなこともできないのか、と壁に直面することは多い。勉強でも趣味でも人間関係でも。皆まで書かないが、心底自分が嫌になっていた。自分は比較的現実主義者で賢明なつもりでいたが、実際には想定を下回る生活をし、成果も出せていない。自惚れだったんだなと気付く。高評価を得なければいけない、という目標ラインを下げた。妥協も賢さである、と自分を認め精神的に楽になった部分と「俺はこの程度の人間か」という失望感があった。精神的緩和と失望の割合は3:7くらいだろう。


恥ずかしい話だが、その絶望感は私を終始蝕み、学生時代から今までで何度か自殺未遂をした。生き残る度に妥協し、自分を許し、死にたい気持ちからなんとか目を背けている。その度に目指していたステージから下がり、妥協の量が増えている気がして苦しさは増した。

精神の成熟とはこういうものなのかもしれないが、私は耐えられなかった。実家と呼べる場所はなくなり、入る墓も無くなった。金がなくて家族が無くなったはずなのに、金を得ても維持する家族はとうに離散していた。皮肉な話だ。雹のような痛みが降り注ぐ中、耐えていれば幸福は訪れると聞いて丸まっていた。顔をあげたら何も無かった。残ったのは丈夫な身体と乾いた心だが失望はない。今から取立てに行けばいい。人生で一番怖いのは自分をコントロールできなくなることで、あとのことは大体大丈夫だ。痛みには強くなった。楽しいこと、興奮することを探し生きながらえようと思う。

問題は「ステージが下がった」などと考えていたことにある。世界を分かったつもりになって自分の人生を都合よく空想し、勝手に失望し、全力で打ち込まなかったことにある。


がむしゃらさ、の最適解


私が麻雀を教えた友人の1人で、考え方が真逆の奴がいる。世界は自分にとって都合が良いように動き、考えても仕方ないことは考えない、自分の「楽しい」を優先する、そんな奴だ。麻雀の打ち方にもそれが現れていて、攻めっ気の強い不安定な麻雀を打つ。4位を取るが、1位も取る。夢と勢いに溢れた麻雀。

麻雀打ちとしては、コイツの方が上だと内心認めている。冒頭で述べたように、1位を取ることが麻雀の正解である。一見堅実で手堅い麻雀を打っているように見える私の方が、目先の点数や順位に執着し大局が見えていないと言える。同じことが人生にも言える。

効率よく、要領よく、コストパフォーマンスを意識し、少ない労力で成果を得る。その力を求められる場面は確かにある。しかし一種の「がむしゃらさ」が結果として正解になる場面は多い。恐らく、とても。

麻雀で言えば、それはリスクがある手である。自分の順位が下がる可能性がある。きっと人生でも同じで、時間と労力をかけたのに失敗終わることもある。心身を壊すこともある。これは周囲からも馬鹿にされやすい。頭を使ってないように見えるし、無駄が多くて口を出したくなることもある。その反面、がむしゃらに壁を乗り越えた時にしか得られないモノがある。冷笑する層はその過程で得られるモノを軽視していることが多い。自身の限界を見定めるのは難しいが、ちゃんと睡眠が取れるラインのがむしゃらさを維持できると強い。

物事には運が絡む。確実に成功する方法は無い。大きな成果を望む場合、リスク取らなければいけない場面がある。自分はなんとなく勝てるはずだという驕りも、自分じゃ勝てなさそうだという諦めも役に立たない。「外したら順位を下げる」と分かった上で踏み込めるかどうかが問われる。そこで下がった順位を見て落ちこむ必要もない。攻めた上で外したぞ、と次の局へ向き直すのが最適解だと思う。


ごちゃごちゃ書いてしまった。私は「がむしゃらさ」を肯定したい。


探そう、がむしゃらさ


がむしゃらにやれ!と言われても、そんなやる気出ないしやる意味ねぇじゃん。と思う場面は多い。自分ががむしゃらにやれること、がむしゃらにやってしまうことを探すのが案外大事なんだなと気付いた。人はそれを適正とか才能と呼ぶのであろう。

人生は楽しいがむしゃらさだけではない。苦痛と心労の中で、がむしゃらさを要求されることがある。乗り越えるためには体力や気力が必要になる。じゃあその体力や気力はどう身に付けるかというと、何かに真剣に向き合い、がむしゃらにやった経験がある者は体力や気力も優れている。

仕事や学問だけに留まらず、趣味の世界でもそうだと思う。貴方ががむしゃらになれる何かと出会い、命を燃やし、そのがむしゃらさを貫いて欲しいと願っています。周囲の冷笑も、嫉妬も、孤独感も、無力感も、全部無視して走り抜き、通った道を燃やし尽くような何かに出会って欲しい。

貴方に寄る辺がありますように。


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