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小林伸一 -家中を埋める優しき細密画-

 横浜市の西区と保土ケ谷区をまたにかける洪福寺松原商店街。ダンボールを屋根に積み上げた光景が名物の外川商店をはじめ、あたたかい下町人情が漂い、「ハマのアメヨコ」としていつも賑わいをみせている。

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 その商店街の中にある総菜店「京町屋」で、なぜかいつも自分のメガネを中性洗剤で洗ってもらっているという人に出逢った。この店の常連でもある小林伸一(こばやし・しんいち)さんだ。そのメガネは、とても変わっている。レンズはセロハンテープで固定され、耳にかける部分は何重にもガムテープが巻かれていた。

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 病院で「痩せろ」って言われて8キロ落としたら、ガムテープでいっぱい巻かないと落ちてきちゃうんだよね。それと、一日掛けてても耳が痛くないのが利点なの。レンズは、ネジが無くなってきちんと止まってないからセロハンテープで止めてんの。これが一番よく見えるからね。だから、商店街の社長が「買ってやる」っていうけど、断ってんだよね。

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 すっかり話し込んでしまった僕は、商店街の裏にあるという自宅にお邪魔させてもらった。このお宅が本当に凄い。小林さんの手による植物や食べ物、富士山そして鉄腕アトムなどの手書きイラストが描かれた自宅外壁。玄関を開けるとトイレや風呂場、二階への階段や寝室、そして床にまでハートマークや富士山、季節のイラストなどが色鮮やかなタッチで描かれている。先日、台湾にある「彩虹眷村(虹の村)」を訪問してきたが、日本の、それも横浜にこんなアートハウスがあったとは。ひととおり部屋を案内してもらったあと、薄暗いリビングの椅子に腰掛け、小林さんはその半生を語ってくれた。

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 昭和14年に横浜市中区竹之丸で4人兄弟の3番目として生まれた小林さんは、5歳のとき父親がアル中により50歳で他界し、ずっと母親に育てられた。

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 絵は全然ダメで、あんまり好きじゃなかった。だけど工作は1年間オール5で、版画とかを彫るのが好きだったの。僕が40歳のときに「親父が宮大工をやってた」って分かったんだよね、だからそういう遺伝もあるのかな。

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 得意な木工の仕事を求めて、中学卒業後は横浜市内の家具屋へ丁稚奉公に行った。ところが、外で材料が入ってくると積んで、帰ったら中に入れるという運搬の仕事ばかりで、木工技術は教えてもくれない。そのため、すぐに嫌になってしまったようだ。

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 だから、見よう見まねで、家具に取っ手やカーテンや鏡をつける仕事を覚えちゃったんだよね、覚えたらみんな辞めちゃうから、僕が代わりにやってたわけ。5人で一緒に入ったのにさ、あるとき4人が机作り始めたの。だから頭きちゃってね。「俺もこんなのじゃなくて、机作らしてくれ」って。でも半分作ったら、また「取っ手の方をやってくれ」って言うから、頭きちゃって、それから1週間休んじゃった。そしたら作る人いないでしょ、いっぱい溜まったころ、出勤して「辞めます」って。ざまあみろだね。

 1年半務めた家具屋を辞めたあとは、日産自動車の下請けである木工所へ勤務。昔は木で作った自動車部品が多かったが、生産を倍にするために、ちょうど機械を導入し始めた頃で、次第に仕事が半分になってしまった。「こりゃあ、もう倒産するな」と思い、そこも1年半で退職した。

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 そのあとは東芝や日本電気へ面接に行くが、身体検査ですべて不合格。ブリジストンタイヤを受験したときは、体育館に計測器が並んでおり、「身長や体重が足らないからダメだ」と言われてしまったそうだ。昔は二交代や三交代の仕事だったため、体格が重視されたのではないかと教えてくれた。そのあと、横浜の職業安定所に「身体検査がないところがいい」と相談に行ったところ、東京のプラスチック会社を紹介され、ほとんど試験がないまま「明日から来てください」とすぐ採用された。

 入ったら製造現場だったのに、現場の仕事しないで「お前、木工所いたんだからハシゴ作れんだろ」って。それでハシゴ作ってやったら今度は「2人くらいぶら下がってもいい棚作ってくんねえか」って言われて。棚作ってやったら今度は「40の引き出しがある書類棚作れ」って言うの。作るもんなくなったら「一日50円の手当てがある大工仕事を募集してるから行くか」って。だから現場入ったのに現場の仕事しないでさ、ずっと大工してたわけ。

 そんなとき、会社の建物が火災に遭い、建物の3分の1が燃えてしまう災難に見舞われた。「まだ入社して半年しか経っていないから、俺はクビだ」と思っていたが、燃えた部署の人員が30人解雇され、なんとかクビはまぬがれたそうだ。しかし、そんな安堵も束の間、再び転機が訪れる。

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 2年半くらい経ったら、今度は「人が辞めちゃったから、荷造りしてくれ」って言うんだよ。昔は荒縄の時代だから、手がガサガサになっちゃうんだよね。だから「こりゃ、大工に戻れないな」と思って、運転免許証とって「運転手にしてください」つったら「いいよ」って言われて。そのあと、人が来たから「倉庫行け、現場行け、クレーム返品係へ行け、配車係へ行け」とかで、結局10年で11回も配属が変わっちゃった。それで会社が千葉の野田に引っ越しするっていうから、頭きちゃって「社長、俺は10年で11回も異動してるから、移転したら好きなことを10年やらしてくれ」って言ったら「いいよ」って。「じゃあ一筆書いてよ」って言ったら「書けねぇ」って。「書けねぇなら辞めるよ」って辞めちゃったの。

 このとき40歳となっていた小林さんは、横浜や鶴見や川崎の職業安定所へ毎日通うが、なかなか仕事も見つからなかった。最終的には、姉の旦那が経営するボイラー会社の子会社に勤めることになった。

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 運転免許しか持っていなかった小林さんは、親会社のボイラー会社で修行してくるように命じられた。ここでも一日中ヤスリがけをする仕事に嫌になり、頭にきて、また「辞める」と言ってしまうが、「だったら半日座ってやる仕事がある」と勧められたのが、製作図面に従って工作物の表面に加工基準となる線や穴位置などを描く、「けがき」という作業だった。そして、この仕事が小林さんにはピッタリ合ったようだ。

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 「コップ1個作るのに6分でやれ」とか、全部時間が決められてるんですよ。出来ない場合は「こういう理由で6分のとこ10分かかった」って申請書書いて出すわけね。仕事がなくなって「仕事ない」って上司に言うと「草むしりしてくれ」とか「ペンキ塗りしてくれ」って言われるから、それで労働した時間を請求してたの。でも夜勤とか色々やってたんだけど、結局仕事なくなっちゃってさ。挙げ句の果てに「下水処理場に半年行け」って。頭きちゃってね、臭くて最初は弁当食えないし、「ネズミから感染する病気に感染しちゃうと、肝臓やられて死んじゃうから」って、地区内の保健所で予防接種も受けたよ。ウンチを固めて粉の石炭と混ぜる機械をそこに据えたから、テストのように行かされてたわけ。「凝固剤が目に入ったら失明する」とか言われて、それで雨の日に行って混ぜてたら全身真っ黒けになっちゃって大変だったよ。

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 だけど、半年行って帰って来たらまた仕事ないの。それで横にいた先輩まで他の会社行っちゃってさ、そのあと福島原発でボイラーの中のグラインダー掛けの仕事を3ヶ月。昔はマスクなんてないから手ぬぐい巻いてね、グラインダーをバンバン浴びてね、ひどい目にあっちゃった。

 福島から戻ってきた小林さんは、今度は親会社の「日立」がある神奈川県秦野市で1年間の寮生活を始める。6人部屋で、「お前が鍵閉めなかった」など喧嘩が絶えなかったという。その後は「日立の小田原へ3ヶ月技術を盗みに行ってこい」とか「広島の製紙工場へ1ヶ月入ってこい」など、まさに全国各地を転々とする生活を送るようになった。

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 広島の工場じゃあ、燃えたカスが溶岩のようにドロドロと出てくんのよね。それを長いひしゃくですくってさ、固めて粉にして分析すんだけどね。「燃えカスを取るときに爆発するから注意しろ」とか言われて。12月の中頃に、煙突の中段まで登ってビーカーをサンプルに差し込んでブルブル震えながら測定したのを覚えてるね。

 結局、子会社に飛ばされてボイラー材料を手配する仕事になったが、中学校で英語を習った程度の英語力だったため、なかなか苦労したようだ。

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 前任者が大卒だったんだけど定年で辞めたくないから、僕に教えないようにしてさ。僕がダメだったら、自分がまた引き継ごうと思ってたらしいのよ。ちょっと質問すると「二回目じゃねえか!」って教えてくれないの。その人は机を新聞紙で高く囲って、自分の仕事を見せないようにしてんの。

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 僕は英語習ったことないからさ、帳面にAからZまで書いて、「何て読んで材料はどういうものでどこの棟に入れるか」とか書いてたね。エラーで何回も返ってきたけど、事務所の女の人も「教えてあげなよ」って言ってくれたんだけど、やっぱり教えてくれないから、他の人に「辞める」って言ったら、「もうちょっと頑張りなよ」ってみんなから言われて。その教えてくれない人に「僕はこの仕事向かないから近々辞める」って言ったらニコニコしちゃって、それから教えてくれるようになって。結局、僕が仕事覚えちゃったから、その人辞めたんだけどね。

 働いていた子会社は、それから、広島の同業会社と合併することになり、小林さんは59歳でリストラを受け退職。何十もの仕事をこなし、がむしゃらに働いてきた小林さんの最後は、あっけない幕切れとなった。

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 中卒だから、どこ行っても給料少なくて、年金も59歳までしか払ってないでしょ。だから、いまは節約生活。水もメーター分回さないようタライに垂らしてて、そこにたまった洗面器2つ分を食器洗いのときに使ってんの。それで懐中電灯を照らしながら夕飯の支度をして、食べるときは豆電球ひとつで食べるの。あと食材を買いに行っても「これ火通すの」って聞いて、「通す」って言われたらもう買わないのよ。まぁ、うちのやつは浪費家だから、熱いものしか食わないんだよ、俺だけ節約生活なの。

 奥さんとは35歳のときに、兄に紹介されお見合いで結婚した。その時、奥さんは26歳。それからずっと夫婦二人で暮らしている。「僕の家だから、どこに絵描こうが、奥さんには文句言わせないもんね」と力関係は小林さんの方が上のようだ。そんな小林さんに、退職してから次々と不幸が訪れてしまう。

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 僕が60歳のころ、近所で建て替える家が多かったから、大工に聞いたら「20年しかこの家はもたない」って言われて、40年くらい前に建てたからさ、不安でノイローゼになっちゃって精神病院へ半年間通院したのよ。「家がぶっ壊れるんで、なんとかしてください」って駆け込んだら、先生も困ってたね。それで家から病院まで30分くらいかかるもんだから、次第に行くのが遠いから嫌になってやめたら、ノイローゼも治っちゃったの(笑)。

 そして翌年には、かかりつけ医に何度かMRIや問診をしてもらったときに、脳梗塞が見つかる。幸い早期発見だったため、服薬治療で済んだそうだ。

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 あと69歳のときには、乳癌になって2回手術したの。最初はマンモグラフィーやんないで診察だけで切られて、放射線治療を25回うけて10万円。4年経って、マンモグラフィーやってみたら、乳首の後ろにまだ癌があるって。頭きちゃったねぇ。それで乳癌で飲まされてた薬に骨がもろくなる副作用があって、骨のレントゲン見た医者が「うわー、ひでえな。骨がスカスカだから転ぶなよ、転ぶと即死亡だよ」って言うの。だから当時は怖かったねぇ。

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 そんな小林さんが絵を描き始めたのは、2012年頃のこと。それまで家の壁を3回ほど自分で塗装していたが、やがて高所での作業が怖くなってきたため、外のトタンのサビを業者に塗ってもらうことにした。その結果、今度は塗装してない箇所のサビが目立ったため、手が届く範囲を自分でも塗るようになり、その上から絵を描くようになったというわけだ。

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 最初は家の外壁に描いていたが、外を通りかかった人が「ここに何を描け」などと言い出すようになり、住人のリクエストに応じて描いていたら野菜や富士山、植物など、統一感のない絵が混在することになったそう。やがてトイレや風呂場、そして室内のあらゆる箇所に絵を描くようになり、あとは床や天井を残すだけとなった。

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 だいたい描けるところは描き終わって、下の方は寝っ転がって描くから取っといたんですよ。でも家の中を見た人は「みんな天井が空いてる」って言うけどさ、あそこに貼ってるのと同じ大きさのを270枚描いたんだよね。前に脚立から落っこって肋骨にヒビが入ったから、もう怖くて脚立登れないから押入れにしまいっぱなしなんだけど。天井を埋め尽くすくらい描いたの。

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 そう言って小林さんが押入れから見せてくれたのは、一枚だけ天井の隅に貼られたものと同じ大きさの、多量のドローイングの束だった。なんでも40歳くらいから、キャラメルやお菓子の外箱のデザインを拡大して描き、それを各お菓子メーカーに送っていたようだ。

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 いつもデザートに寒天ばかり食べてたからね。「ハッピーターン」でデザートを作れないかと思って、「ぶどう味、イチゴ味、栗味ハッピーターン新発売」って絵を描いて送ったの。「季節ごとにいろんな味を作ってくれ」って。返事がこないんだよ。だから、頭きてもうハッピーターン食わなくなって、いまは「かっぱえびせん」ばっか食べてんだ。

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 ちなみに小林さんの意見を参考にしたのか不明だが、現在までに亀田製菓の「ハッピーターン」は、製造終了したものも含めマンゴー味、木苺味、抹茶味などさまざまなフレーバーが発売されている。そしてたくさんのドローイングを、千葉県のとある美術館に送ったこともあるようだ。

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 そしたら、「展示は正式な手順を踏んでください」って返ってきちゃったの。見せるために送っただけなのにさ。同じものを横浜市長にも送ったけど、だれもなんにも言ってこないね。あと「ナニコレ珍百景」に家の写真を120枚くらい撮って送ったんだけど、いまだになんにも言ってこないの。えっ、あの番組終わったの?? 節約してテレビ見てないから分かんないんだよ。

 小林さんの寝室には「絵の参考にしていた」というお菓子の空き箱がテレビの上に並べられていたが、床は足の踏み場がないくらい沢山の、お菓子の袋であふれていた。

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 お菓子はそんな好きじゃないけどね、人にあげるためにストックしてんの。どこでもなんか買うときはレジに必ずお土産持っていくの。「一日立ちっぱなしだから大変だろう」って、「これあげます」って渡したら商品と勘違いしてレジ通しちゃうの。「違うよ、うちから持ってきて、あんたにあげるやつだよ」って渡すと、「えー」ってみんなビックリするの(笑)。この間も「野菜ポッキー」を10パック買ったら、2分で知らない人に配り終えちゃったよ。 

 そんな小林さんのライフスタイルは、朝3時30分に起きて深夜12時に寝るという、睡眠時間3時間ちょっとの毎日。もう、この生活が体に染み付いているんだとか。

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 朝3時半に起きたらまず、ひげ剃り器のスイッチを入れるんですよ。夜に使った食器を外の薄明かりを利用して洗ったりなんかして、4時半くらいから朝食を食べてる。5時半くらいからやっと明るくなるんだけど、待ってられないから鏡を出して、薄暗いところで描くわけ。明るいところでみたら「はみ出てんな」ってこともあるし、あんまり寝てないから、いろんなことやってると、途中で眠くなってくるんだ。家の中は今のところは全部描いてるんだけど、だんだん日が当たったりして色が薄くなってんだよね。

 聞けば、モチーフとして多用している「富士山」と「ハートマーク」は、単に好きなのだとか。「富士山」に関しては、若い時は山登りもしていたようで、「神奈川県にある山は55回も登ったけど、富士山はどうも登る気がしない」とのこと。そして使用している画材は油性マジックだ。

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 小林さんの絵をよく見ると、風呂場とトイレの扉には春夏秋冬をテーマにしたイラストが一枚ごとに描かれているし、点描のようなタッチが特徴的だ。でも、これは土壁に描いたときに、壁紙がとれないように仕方なく編み出した描き方らしい。参考にしている画家もいない。ダイニングのテーブルが小林さんのアトリエになっているが、いまは木材が散乱している。そして、ふと足元に目をやると、ダルマなどのイラストがたくさん描かれた小さな箱が積み上げられていた。中に入っていたのは、小さな手作りの下駄だった。

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 なんでも木工所で働いていた20歳ごろから、会社の機械や木をこっそり使って、仕事中に隠れて自分が履く下駄をつくっていたようだ。ところがプラスチック会社に転職したら木があまりないから、代わりに小さな下駄をつくるようになったのだとか。

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 下駄は縁起物で、江戸時代にはお金のことを「お足(おあし)」って呼んでたんですよ。だから、出来たら人にあげてるの。国連にも寄付したことがあるけど、会社の人にはあんまりやらなかったなぁ。広島県福山市の「日本はきもの博物館」(現在は「松永はきもの資料館」)にも20足寄付したしね。いままで下駄を31種類作ってんだけど、いま32種類目を寝ながら考えてるの。だからあんまり寝れてないの。下駄作りが忙しいから、玄関だけしか絵を塗りなおせてないんだよね。

 毎日絵を描いたり下駄作りに励んだりしている小林さんだが、テレビ番組などで取り上げられたことで、見物客が押し寄せるようになっている。「入館料とって美術館にすればいいのに」と僕などは思ってしまうが、小林さんはせっせと持ち帰り用のお菓子や絵を、今日も準備している。

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 死ぬまで続けるね、これが生きがいだもんね。見学者には絵を描いてあげてるんだけど、このあいだ来た人なんか、「絵を見に来たんだから絵をあげるよ」っていったら、「急いでるから帰ります」って。「急いでんならもう来ないでくれよ」って、頭きちゃったよ。

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 そう笑う小林さんの絵を、お話を伺ったあとで見直してみると、どこか縁起を担いだような絵が多いことに気づく。小林さんは、これまでいくつもの仕事をこなし流浪の人生を送ってきた。退職後は「死ぬかもしれない」という恐怖を抱えながら生きてきた。小林さんがそれまでの人生を浄化するように描き出した作品群は、僕にはなんだか有難い仏画のように思えてきた。ここにも絵を描きたくて仕方ない、描かなければ死んでしまう人がいる。

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<初出> ROADSIDERS' weekly 2016年5月25日 Vol.213 櫛野展正連載



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