酒井寅義 -おんせん県のペルソナ宇宙-
別府温泉がある別府駅からほど近い、昔ながらの街並みの中に「酒井理容店」はある。理容店といっても外側に看板が出ているわけでもなく、営業中はサインポールがクルクルと回っているだけ。ただ、このサインポールの中で回っているのは、良く目にするあの赤・青・白の模様ではなく、デコレーションされた不気味な仮面や人形なのだ。
店主の酒井寅義さんは、1936年生まれ。いまも現役でひとりお店に立ち続けている。酒井さんは愛媛県北宇和郡奥南村(現在の宇和島市)に10人兄弟の7番目として生まれた。年齢が幼かったため出征こそ免れたものの、兄弟の多い家計を少しでも楽にするため、尋常中学校卒業後は16歳で親元を離れ、やってきたのが大分県だった。だが、そこで待っていたのは厳しすぎる修行の日々だった。
ちょっと大きな店やったけぇ、職人さんが多くて仕事が回ってこんのんよ。「俺がやっても、ヘタクソなお前がやっても料金は同じ。ヘタクソなお前がやって誰が喜ぶか」ってよう言われて。何にも教えてくれんし、お客さんに当たらしてもくれん。実質的には、子守りと掃除にいったようなもんだ。そこに住んで飯を食わして貰うだけで一か月の生活費は200円。給料なんか出んし反対に「持って来い」って言われとったわ。だから仕事を覚え
るために、西別府病院の隔離病棟へ「タダでええから散髪さしてくれ」って行ったりして。病院とかをまわって自分で技術を磨いていったわ。
そんな過酷な状況でも次第に実力をつけ、在籍していた4~5人の丁稚奉公の中でも一番の先輩格になっていた酒井さんだったが、あるとき突然解雇されてしまう。
店の中のどこに何がある、あそこと付き合いがある、借金がどれくらいあるとか、店のことを皆覚えてしもうたからな。目障りになったんじゃろ。じゃけぇ、従業員の誰かが俺を辞めさせるように告げ口したんよ。
その後、酒井さんは仕事を求め大阪へ。今でいうアシスタントとして、日替わりで何件もの散髪屋を転々としながら、お金稼いだという。どこも初めてのお店のため、何がどこにあるかわからず苦労することも多かったようだ。そして3年ほど経って、酒井さんはふたたび大分へ戻ることに。
大阪なんかおったら家賃高けぇじゃん。大分が修行したところじゃけぇ知り合いも多くてな。27歳くらいで結婚して、最初は末広町の軒を借りてベニヤ板でつくった小さな場所を夫婦でやりょうたんじゃ。そこの大家も自分の土地じゃなかったから、俺が土地を買って追い出そうと陰でこそこそしとったら知れ渡って反対に追い出されたわ(笑)。結局4 年ほど一所懸命やって、銀行と仲良くなって融資してもらって、この古い家を買って散髪屋に改装してな。
そして、32歳の頃、自分の店舗を構えた酒井さんはついに作品の制作に取り掛かり始める。最初は「木造船がこれから無くなる」と聞いて海岸に出かけ、難破した木造船の船板を拾ってきては、船の保存も考えて格言などの字を彫っていたという。ところが「余りにデカすぎて描けるところが無くって辞めた」ようだ。その後、「大分県の宇佐神宮に行ったら国宝か知らんけどガラスケースに入った面がいっぱい飾られてて、人が出来るもんなら俺もできる」と一念発起。以後、40年以上にわたり、すべ全て独学で仮面や仏像を彫り続けている。
40年前から「歳とって何も趣味無かったら、ボケてダメだ」と思ってたから。歳とってからやったらって下手くそで、すぐ辞めてしまうで。だから「今からやりぁ、ちったぁ上手になる」と思って。そのかわり夢中になったがな。
作品の多くは、海に流れ着いた流木などの素材をベースに制作。「数えたり計算したことはねぇ。ただ置き場がねぇけぇ飾っとるだけ」という言葉通り、店内の至る所に仮面や置物が展示され、3台ある散髪台のうち左右の2台は鏡台や椅子の下にまで作品が溢れている。御世辞にも繁盛しているとは言えない雰囲気だが……。
床屋は、もう知った人しかこん。ボケ封じに営業しとるだけ。わしが一人でやりょおるだけで、料金は高くて3000円じゃ。安かったら刈りっぱなし(カットだけ)で1000円かな。外のカラーポールは、三年くらい前にモーターが動かんようになったんよ。買ったら50万くらいするし、「何とかならんかなぁ」と相当頭使ったで。それで知恵を絞って、結局モーターだけ買って、100円均一でちょうどええ芯棒を買ってきて、それに人形や仮面を付けてな。床屋は人気ねぇけど、あれは人気あるんだよ(笑)。
さらに3年程から漂着した発泡スチロールも素材として使い始めたという。なかには廃棄されていた自転車のヘルメットなどもあり、すべて元の形を上手く活かして造形表現が生み出されている。特に、アクリル絵の具の「黒」を塗った上から「金」を塗って顔の濃淡を表現する独特の色遣いや、100円ショップのチープな玩具なども仏像の装飾に使用するあたりは、酒井さんのセンスが光っている。削るのは小刀やノミで、特別な道具は使わない。「外に展示したこともねぇ」と語る酒井さんの発表の場は、これまでずっと自分の店内だけだし、このまま行くと最後の散髪台が作品で埋め尽くされる日も近いのではないだろうか。
そして、待合い席には美術書が山積みにされ、近くで展覧会があれば、よく足を運んでいたようだ。「そうしなければ、力のこもったところが見えんしな。モノを作るのは、昔からそんなに好きだったわけじゃねぇ、ただ夢中にならんとこれらは出来ん」と酒井さんは語る。もはやお客さんが座ることの出来なくなった両端の散髪台には、作りかけの作品がいくつか立てかけられていた。
休みの日に大きい作品はあらまし彫っといてな、ずっと眺めとったら、どれから仕上げようかって絵が浮かんでくる。さすがに大きいのは時間がかかるけど、小さいのになると2~3日あったら出来るわ。気力次第だな、気力がなけりゃノミが進まん。夢中になったらいつの間にか荒削りしょうるよ。夜中でも大きい音がせんように彫れるけえな。
作業場は裏手にあり、お客さん専用のガレージをいまでは作業する場としても使っている。「高齢のお客さんばかりで、車で来る人なんて居ないから」と酒井さんは笑う。大作の中には1メートル近い作品も。
酒井さんが作品と対峙する姿勢は、まさにアーティストそのものだ。最初は「老後の趣味に」と始めたが、もはや「老後」と呼ばれる年齢になったいま、どちらが本業なのか分からないくらい店内はおびただしい数の表現で埋め尽くされている。確かにその外観や店内は怪しさ満点だが、40年以上ずっと何かに夢中になっている人を僕は決してバカにできないし、僕は一体何に夢中になれているのだろうか。
この後?どうするんか知らんよ。店の跡継ぎもおらん。まぁ、誰かが買いに来るじゃろう(笑)。家族は興味ねぇなぁ。近所の人からは「憎たらしい」と思われちょるけん、誰からも褒めらりゃせんわぁ。
そう話す酒井さんだったが、「良かったら二階も見せてあげる」と帰り際に奥様が二階の居住スペースへ僕を案内してくれた。「私の好きな作品よ」とリビングで奥様が指差した先には、数点の作品が蛍光灯の光をうけてキラキラと輝いていた。世間一般では「アウトサイダー・アーティストは孤独だ」なんていうけれど、ここに一番の理解者がちゃんと並走していたのだ。別府の湯に浸かった以上に僕の気持ちは、なんだかほっこりしてしまった。
<初出> ROADSIDERS' weekly 2015年7月22日 Vol.173 櫛野展正連載