土屋修 -なんぞしなあかん-
日本列島のほぼ中央に位置し、「水の都」と呼ばれるほど、豊かな地下水に恵まれた土地として知られている岐阜県大垣市。市内の県道沿いには、カンガルーやキリン、孔雀などのオブジェが顔を並べる場所がある。この家に住む土屋修(つちや・おさむ)さんが、古いタイヤを利用して制作したもので、子どもたちに人気の名所となっている。
保育園のマイクロバスが止まって、よく子どもたちが来てくれて。子どもらが『トカゲや怪獣がおる』って言うから、『これはトカゲやなくてワニやよ。あっちのは、怪獣やなくて恐竜やよ』って説明しとるんやて。
そう話す土屋さんは、1944年に4人きょうだいの次男として大垣市で生まれた。「昔から、図画工作だけは成績が良かった」と語る土屋さんは、中学卒業後から「手に職を持っておいたほうが良い」という父の勧めで、近所の自動車会社に修理工として勤務した。給料が安かったため、3年後の18歳になったのを機に大型自動車の免許を取得。地元の運送会社に転職し、長距離ドライバーとして働いた。25歳のときには、ダンプカーを買って独立し、和歌山県や兵庫県など県外へ石炭を運送した。朝から晩まで働き詰めで稼ぎの多かった土屋さんは、23歳のときに、土地を購入し、みずから埋め立てるなどして整備。29歳で結婚したときに、そこへ家を建て転居した。
現在のようなモノづくりに取り組むことになった経緯は1986年ごろ、テレビでタイヤを利用した鉢植えカバーの制作風景を目にしたことだ。それまで仕事でたくさんの古タイヤを見てきた土屋さんは、仕事帰りに山間部にあるゴミ処理場へ立ち寄っては、廃棄予定の古タイヤを10本ずつほど譲ってもらうようになった。ゴミ処理業者もタイヤの廃棄に困っていたので、とても喜んでくれたそうだ。持ち帰ったタイヤを休日になると自宅の庭で加工。ホイール部分に植木鉢を置けるように、タイヤを裏返して鉢植えカバーを自作し、カバーの周囲にはディズニーキャラクターの絵などを描いた。
制作を重ねるに連れて、鉢植えカバーだけではなく、「古いタイヤを使って、もっと何かつくれないか」と思案するようになった土屋さんは、1988年1月に中日新聞の読者投稿欄で、古いタイヤで制作された鶏のオブジェの記事を見たことで一念発起。同じ鶏から制作を開始したが、いまひとつ出来栄えが気に入らなかったため、次々に他の動物も制作するようになった。1年間で完成したのは、ゾウ、かもめ、カニなど7種類のオブジェで、どれも鉢植えの花が飾れるように細工を施した。
その後も、カニの胴体部分にタイヤを丸ごと使用するなど、タイヤの形や特徴をそのまま活かしたオブジェを制作。よく見ると、孔雀の羽の部分には裏面に鉄板を入れて補強するなど、細部にまで工夫がなされている。仕事が終わってからと休日は、庭に設けた作業場で制作に没頭した。動物図鑑などを見ながらイメージを膨らませ、電動ノコギリやカッターナイフでタイヤを切断、内側の帯鉄をボルトとナットで固定して形をつくっていく。色落ちしないようにサビ止めを塗った上から、水性ペンキを5回塗布して仕上げていくという徹底ぶりだ。
主に使用するのは、加工しやすいノーマルタイヤで孔雀は6本、パンダは7本のタイヤを使っている。1つの作品をつくるのに1~2ヶ月は必要で、タイヤ約20本を使った体長4メートルほどの恐竜をつくった際は、完成までに数カ月を要した。あるとき、作品を近くの保育園に寄贈したところ評判となり、他の保育園などから「譲って欲しい」との声が相次いだため、これまで保育園や病院など50箇所に寄付。
長女は、『友だち連れてくると恥ずかしいで、つくったらあかん』と言っとったわ、いくら娘から言われても、こっちは趣味やで。
その長女は、1995年に癌が原因で22歳という若さで他界。亡くなった2年後から、土屋さんは「娘はこの家におったから、天国から娘が見えるように」と、庭に電飾でイルミネーションを飾り始めた。当初は古タイヤのオブジェの周囲に張り巡らせる程度だったが、徐々にエスカレートし、現在は家の玄関先や屋根、庭などのあたり一面がイルミネーションで覆われた状態となっている。
さらに、熱烈な中日ドラゴンズのファンということもあり、ドラゴンズが優勝したときは「日本一」というイルミネーションも掲げるなど、応援メッセージを込めたイルミネーションは評判を呼んでいる。よくみると、中央にある「2019」という年号のイルミネーションなど、毎年つくり変えているものもあるようだ。
昔はLEDじゃなくて普通の電気やったから、ようけ電気くったで、エアコンなど掛けらんかったで。クリスマスの10日前くらいに3割引くらいになるのを待って、10万円ずつくらい買っとったから、イルミネーションだけで全部で150万円くらいは使っとるだで。
雨天時を除いて、毎年10月~2月頃まで毎晩イルミネーションを点けている。1999年には、妻も癌で亡くした。一人ぼっちとなった土屋さんは、ますます何かをつくることにそのエネルギーを注いでいったのだろう。
土屋さんがつくったタイヤのオブジェの中には、タイヤに水がたまって腐敗し、処分してしまったオブジェも多い。近年になって電気ドリルで穴を開けることが難しいスチールホイールのタイヤが増えたことや、近隣のゴミ処分場が閉鎖し材料が入手困難になってしまったこともあり、土屋さんはもう新作のオブジェをつくってはいない。
そのかわり、「なんぞしなあかん」とペットボトルを使った風車制作に精を出している。向かいの公園でペットボトルを拾ってきては、倉庫で保管。毎日制作を続け、趣味の温泉地を巡る際は、訪問先に5~6個寄贈しているようだ。
土屋さんは、鉢植えカバーと動物のオブジェだけで、30年以上をかけて、これまで500体を超える作品を制作してきた。「同じやるなら、見えるところにやって他の人に楽しんでもらったほうがいいで」と笑うが、自宅を過剰に装飾するということは、別の見方をすれば、人目にさらされる危険性をはらんでいるということだ。もしかすると、当初は身内だけではなく周囲から批判を受けることがあったのかも知れない。
でも、誰に何を言われようとも絶対に辞めないという思いを持って制作を続けたことで、いまでは地域の名所のひとつになっている。それを続けることができたのは、「きっと誰かが喜んでくれるはずだ」という強い信念を持っていたからだろう。土屋さんのように、決して後ろを振り返ることなく、誰かのために何十年も何かに没頭し続けることが、果たして僕らにはできるのだろうか。
<初出> ROADSIDERS' weekly 2019年7月3日 Vol.362 櫛野展正連載