稲村米治 -昆虫レクイエム-
都心から60キロの場所にある群馬県の東の端・群馬県邑楽郡板倉町。東武日光線「板倉東洋大前駅」付近は開発が進んでいたニュータウンの面影が残り、街のほとんどは広大な農地がいまも広がっている。遠くに見える浅間山を横目にのどかな田園風景を車で走ること10分、とある民家の床の間に飾られていたのは、高さ80cmほどのガラスケースに入った武者人形だった。目を凝らして見ると、驚くべきことに、カブトムシやクワガタムシやコガネムシなど同じ種類のたくさんの昆虫の死骸が左右対称にピンで付けられている。
作者はこの家に住む稲村米治さん、取材当時・96歳。この武者人形は『新田義貞像』であり、制作されたのは1970年、稲村さんが51歳のときだという。
稲村米治さんは、三人兄弟の長男として大正8年に大箇野村(現在の板倉町)に生まれた。
大箇野村尋常高等小学校を出て、16歳で足利の親戚の家へ奉公に行きました。住み込みで、糸を染める染色の仕事を習ってたんだけど、22歳で戦争に出征してね。私は徴兵検査で「乙」だったけど、当時は「乙」でも現役で行っちゃったんですよね。戦地は中国で、14連隊の輜重隊として前線に軍需品を運ぶ役で、光州を通ってベトナムのハノイで終戦を迎えました。結局5年8か月も戦争に出てて、終戦の翌年に帰国したけど、戦後は仕事もないからね。28歳のときに3つ下の婆さんと結婚して、農業ばっかりじゃ食べていけないから、染色の仕事をしに群馬県の足利や館林へ行きましたね。次第に、職業難でどんどん仕事が無くなって暇になっちゃって、子どもが5人もいたから、34歳で東武鉄道に就職したんですよ。
2時間かけて東京まで通勤し、手動踏切の仕事に従事。56歳まで働いた後はデパートでの守衛業務を続け、65歳で定年を迎えた。そんな稲村さんが虫を使った立体像を作り始めたのは、鉄道会社で働いていたときのこと。
昔はこのあたりに屋敷も多くて、周りは柳の木や山ばっかりだったから結構虫がいたんですよ。当時、子どもたちがカブトムシを捕っちゃあ、石油缶に入れてガラガラやってたんだけど、結局は死んじゃうでしょ。子どもは飽き性で、標本箱に並べてもちゃんと注射してないから、すぐ虫がボロボロになっちゃうんですよね。だったら立体にすれば年中楽しめるんじゃないかと思ってね。カブトムシの角だけだと腐らないから、角だけ集めて刺してったら、「なんだいこれ」ってみんな不思議そうに見てたねぇ。
そう語る米治さんに、米治さんの長男・茂さんは言葉を付け足す。
最初は僕ら子どもの小学校の夏休みの宿題がきっかけでね。昆虫を標本にして学校に持って行ってたんだけど、そのうち親父がだんだん凝ってきてカブトムシで、平面の鎧兜の形をつくっちゃったんですね。それじゃあ親がつくったってすぐ分かるでしょ。恥ずかしくて学校持っていけないから、子どもはそこで離れちゃったんですよ。それから1人で熱中するようになって。人形の頭部だけを作って、だんだん昆虫の数も増えていきました。最初につくった「兜」から「武者人形」ってのが頭に浮かんできたんじゃないかな。あと新田義貞の出身が、この上の方にある尾島町(現在の太田市)が新田之庄だったんです。それと、新田義貞が鎌倉へ攻め入るときに、刀を海に投げた場所が私の家の名字「稲村」ヶ崎なんですよ。そういうのが親父の頭にあったと思うんですわ。
聞けば、この『新田義貞像』は立体像としては2作目だという。
あの当時は子どものお祝いに、「破魔矢」とかを親戚から貰ってたんですよね。そういうのをよく見てたし、あの頃子どもに人形なんて買えなかったから五月人形の代わりです。1体目は「楠正成・正綱像」をつくったんですよ。虫でつくった武者人形なんて珍しくてね、ケースへ入れてたんだけど、「うちへ置いててもしょうがねえから、どこか東京の虫が見られねぇ子どもさんたちにやったらいいんじゃねぇか」と思って、鉄道の駅長さんに聞いて、東京の養護学校に寄贈したんですよね。だけど、その当時は防腐剤もあんまりしてねぇから「今は形が無くなった」って言ってましたよ。やっぱり生の虫は、中に臓物が入ってるから目に見えないような虫が湧いちゃうんですよね。
『新田義貞像』は、約5,000匹の昆虫で構成され、そのほとんどは自らが採取したものだ。
子どもだったらね、隣の家の木に行って虫を捕れるけど、大人がそんなことできないでしょ。ただ、朝早く起きて外灯の下に拾いに行くってのは、大人らしくなくってね。牛乳屋さんなんかが来ると「何してるんだい」なんて言われて、恥ずかしかったよ。それに、外灯の下にいる虫は自動車に潰されたり傷だらけになったりしてるのも多いからね。だから夜勤の仕事から帰ってお昼を食べたら、11時過ぎから虫捕りに行くんですよ。一晩働いてきたから、その日は休めばいいんだけど、夕方になると農家手伝わなきゃならないからね。夜はみんなが寝静まった頃に注射するし、色々やってたら朝の4時ころになっちゃうんだよね。ほんと休む暇がなかったね。
「家族は親父のやっていることに興味がなかったですね。あの頃は、一時期カブトムシが飛ぶように売れた時代で、専門の業者がわざわざ捕りに来てましたよ。親父だけは目的が違いましたけど(笑)」と茂さんは笑って話す。
当初は、子どものために作り始めた立体標本の制作だったが、他の虫や埃が入って来ないように、そして何より腐敗を防ぐため、空いていた牛小屋にビニールシートを張り作業場とし、そこで制作に没頭していく。
参考にしたのは、テレビで見た法隆寺の国宝『玉虫厨子』。羽だけだと変色もないが、捕ってきた虫の臓物からはダニなどが発生するため、採取した虫を一つひとつ丁寧にホルマリン漬けにしてくのだとか。
虫を捕ってきたらね、その日の晩のうちにきれいに洗って防腐剤で処理するんですよ。虫には爪でもなんでも細かいところがいっぱいあるでしょ。生きてるうちに注射しておかないと、すぐに足が固くなって縮むんです。あの頃は、夜に電気の青白い光を見続けてると、目が痛くなっちゃうんですよ。それでも頑張って刺そうかなと思って、いじくってっと足が欠けちゃうしね。だから、本当に出来る時間ってのは限られてるんです。大体お盆が過ぎると虫もいなくなりますから、夏の間にいっぱい捕ってね。この部分がどうしても足りないと思ったら、色々下準備なんかをしながら、来年まで待たないとねぇ。虫を買って来て付け足すっていうのはしなかったよ。タマムシなんて一年で2~3匹くらいしか取れないんで、近所の人がときどき「捕ったよぉ」って、持って来てくれるんですよね。それと、虫を刺す日は12月19日と決めてたんです。家内が一人で百姓してて手伝わなくちゃなんねぇから、12月10日までぐらいに農協で野菜を出荷してから3月ごろまで虫を刺したり下ごしらえするんですよね。
日々の睡眠時間は、東京までの通勤時間の1時間半程度で、乗り過ごすこともあったようだ。丁寧に虫を注射し、ひとつひとつ生前をほうふつとさせる様な姿で固定していく。米治さんが何より重視していたのは、まるで虫が生きているような生命の躍動感だったのかもしれない。
まずは、生きているうちに注射して、虫が固まって生きた形に落ち着くまで乾かしてやるんです。みんな這って動けるような形になってますよ。そのあと、気の遠くなるような話だけど、傷まないようにちゃんと蓋が出来るようなお菓子や洋服の箱に並べとくんですよ。だから、丸まったり足が曲がったりしたのは一つもないです。縮んだ足なんか伸ばすと欠けちゃうでしょ。そりゃ、虫を痛めて悪かったけど、途中でやめるわけにはいかないし、何とかものにしなくちゃね。ただ、「こんなこと大人がやってていいんかなぁ、何やってんだろう」って思ったことはありましたよ(笑)。とにかく、人に手伝って貰うってことは出来ないから、完成するまで誰にも見せないようにしてました。
当初は、裁縫用のマチ針を藁や板へ刺すなどして試行錯誤を繰り返していた米治さんだったが、新たに発見した方法が水生生物・マコモを下地に使うやり方だった。
稲わらだと固いから針が刺さらないし、酸性が強いから針が腐っちゃうんです。だから、マコモっていう水草がいいんです。今でも、お盆の時に魔よけとして盆棚に敷いて使ってますよ。あの当時は、このあたりで七夕の頃に「七夕馬」って仏様が乗る馬をマコモで作って仏様をお迎えする習慣があったんです。わりあいに酸性が少ないからね、針が腐らないし、中が空洞だからずぶずぶ刺さるんです。
金属棒や太い針金に、マコモを木綿テープで巻きつけて人形を作り、そこにマチ針で虫を刺すという方法で制作された『新田義貞像』。甲冑の色合いが甲虫によって巧みに表現され、よく見ると、兜の飾りには卵を乗せたコオイムシが、背中に背負った弓矢の羽の部分にはたくさんのセミが、甲冑の腰からたれた草摺(くさずり)の裏側には厚みが出ないようにチョウチョが貼りつけられ、なんと台座にはコルクの板が使われていた。
針が刺さるように、下の台はコルクです。普通の木じゃ針は刺さんないでしょ。最初は、ビールの栓だとか、そんなものを集めてやってたんだけど、「これじゃとても出来ないから」って考えてたときに、ちょうど警備会社の隣でコルクを作ってる会社があったんです。そこの守衛さんに話してコルクの板を売ってもらいましたよ。あれがなくっちゃ出来なかった。
設計図などなく、「行き当たりばったりで虫を刺してった」というが、一見単調そうに見える作業にも、実はその針の刺し方に相当の苦労があったようだ。
いったん針を刺してしまった虫はね、穴が大きくなって差し替えるってわけにいかないから、一回で刺さないとダメなんです。針の頭が虫の中に入らないように、両方から静かに刺してやんないと駄目ですよ。しかも、虫を刺すのに、表っ側は、台に置いて刺すことができるんだけども、裏っ側を刺す場合には、刺したやつを裏っ返しにして、吊っとかなきゃだめなんです。当たっちゃうと虫が壊れちゃうからね。裏側刺すときが、やっぱり刺しづらいんです。それで、平らなとこに刺すんなら針もすっと刺さりますけど、丸いとこに刺すのは、針が中でみんなかち合っちゃうからね、次の針が刺さんない。だから重要なのは、角度です。ちゃんと組み合わせて角度を決めて一番堅い肩のところを一回で刺すようにしないとね。その辺も時間がかかります。とにかく、虫をどこに付けるか選ぶのが大変で、ビニール袋を取って考えてるうちに、日が暮れちゃったこともありますよ(笑)。
実は緻密に計算された方法により制作され、「仮に針が腐っても、虫と虫の足を全て絡めてあるので落ちないように出来てます」とのこと。そんな『新田義貞像』には失敗もあるのだとか。
重量計算がよくできてなかったから、刀を持った手はもっと上だったけど、だんだん下がっちゃって。刀自体はそんなに重くはなかったけど、虫を刺してる針の重さなんかも色々あるからねぇ。これ以上はもう下がってこないけど。それと、古材を利用してガラスのケースを作ったんですけど、台座を計算してなくって、頭がつっかえちゃって入らないんで、足を切ってちょっと短くしたんですよ。
1970年に10ヵ月かけて制作した『新田義貞像』。完成後、米治さんは残った虫を捨てる訳にもいかず、その使い道をしばらく考えていた。「おそらく、もっと大きなものを作りたかったんだと思いますよ」と茂さんが語るように、その制作意欲は日増しに大きくなっていったのだろう。そんな折、クワガタムシの角の集合体が「手」の形になることを発見し、最後に昆虫で巨大な『千手観音像』を作ることを決意する。
仏様は火が多く使ってあるでしょ、だから手が炎の形になるようにね。それに虫がいつまでも観て貰えるようには仏像の方がいいと思ってね。やっぱり生きてる虫を痛めてると、可哀想になりますよ。だから「仏様にしてやって最後にすっから、もうこれで勘弁してくれ」って虫に謝りながらつくってました(笑)。
博物館へ世界の仏像を見に出かけたり、唐招提寺の千手観音の写真を見たりと研究を重ねた。そして完成した『千手観音像』の体長は、台座を含めると180センチほど。小柄な米治さんの身長を遥かに超えていた。
この大きさだと、まずマコモを捕ってから、日干しや陰干しで形を作るのに1年以上かかりました。捕ってすぐ使えるわけでもないですから。その後、形を作って木綿のテープで巻いてます。後ろの光背はマコモをいっぱい合わせて、畳屋さんみたいに2本の針で編んでいくんですよ。もちろん、たくさんの針金や小指くらいの金の棒が入ってます。
ミヤマクワガタ、ノコギリクワガタ、ヒラタクワガタ、コガネムシ、カミキリムシ、ミヤマカミキリムシ、カナブン、コブキコガネなど、『新田義貞像』よりも多くの種類や数の昆虫が使用され、その数はおよそ2万匹以上。そして台座には、唐草模様や鳳凰の図柄が昆虫で描かれ、灯籠部分はクワガタムシやカブトムシを裏返して細工されているなど技術的な工夫も各所に見られる。それぞれデザインの違う一対の錫杖(しゃくじょう)などは、見事としか言いようがない。
千手観音の手は、赤い針金を昆虫のお尻から刺して、その刺したのを三つ併せて扇の形にしてあるから、いくらかふんわりした空間が出来るようにしてるんです。胸のあたりからだんだん広がっていくように、どこで身を増やしていくかってのも考えながらつくりましたね。それなりに大きい虫と小さい虫をあわせて広げていかないとね。下の台座はコルクの板ですよ。自転車の鋼鉄のフォークを曲げてコルクの板に差し込んでるんです。この中に何重も刺さってるから、くっついてるんですね。
『千手観音像』よりも『新田義貞像』のほうが色鮮やかな印象を受けるのは、昆虫の種類だけではなく、その使用した針にある。『新田義貞像』で使っていたのは、カラフルな裁縫の待ち針だったが、鉄針のため錆びるのが早く、「本当は使わない方が良かった」と米治さんは語る。そして『千手観音像』に使ったのが、ワイシャツなどに使われている針だ。そのままでは短いため、「やっとこ」というペンチのような鉄製の工具を使って、昆虫の大きさにあわせて針の長さを一つ一つ加工し、自作したとのこと。何という労力だろう。「接着剤なんかも試したけど、油があって滑るからねぇ」と明るく語る米治さんだが、ここまでたどり着くのにかなりの試行錯誤があったことは想像に難くない。
あとから色々な知恵が出るから、前にやった場所がだんだん気に入らなくなってきたけど、最初にやったとこを取るわけにもいかないしね。昼夜問わず考えていたから、気に入らないとこだらけで、早くケースに入れちゃおうと思って、最後は焦ってたかもしれないねぇ。だから、ケースに入れたときは、「あぁ、これでもうやらないでいい」って(笑)。もう出し入れもできないでしょ。
1975年に約5年の歳月をかけて完成した『千手観音像』。やり遂げた達成感と同時に、押し寄せたのは安堵感のようなものだった。そして、完成した観音像はしばらく自宅に飾っていたようだ。
最初はビニール覆せてうちの廊下に置いてたら、だんだんみんなが見に来てくれるんで、「こりゃ、どっかに置かなきゃしょうがねぇな」って。よその市町村にも貸したんだけど、どうしても動かすと虫が欠けちゃうからね。それで、「板倉町まで見に来て貰った方がいいよね」ってことで建具屋さんにケースを作ってもらって、板倉町中央公民館が出来たお祝いに寄贈したんです。大人がやるようなことじゃねぇから、恥ずかしいんだけどね。さすがにお寺へは話してはないですよ。私のつくった千手観音なんて、本当の千手観音じゃないからね、仏さんに怒られちゃう(笑)。
当初は腐敗を防ぐため、ケースの中にホルマリンの防腐剤を包んだ脱脂綿の箱を置いていたそうだ。
やっぱりどれくらいもつか分からないでしょ。ただ、途中からはもう防腐剤も入れずに手を加えなくなったんですよ。40年も経って、乾燥してミイラになったみたいで(笑)。
完成した『千手観音像』は、当時多くのメディアで取り上げられ話題を呼んだようだ。いまも板倉町中央公民館のロビーで、地域の郷土作家に交じって薄暗い照明の中、ひっそりと展示されている。
周りの人たちは、関心がないですねぇ(笑)。虫をいじくるってのは大人の仕事じゃなくて、子どもの遊びだからね。「隣の父ちゃんが、なんかブンブン(「カナブン」のこと)いじくってんぞ」って。まぁ、「こんなに虫殺して可愛そうね」って言う人もいるけど、皆が見てくれて良かったなって思ってますね。皆さんが観てくれれば、虫も成仏できるんじゃないかな。そんとき捕った虫は、少しですけどいまだに保存してありますね。防腐剤が入ってるから、ちょっと蓋とるってぇと匂いが強いんだけどね。まぁ、もうつくることはないですね。いまじゃ虫も捕れないし、やっぱり一つ作るのに大変な時間がかかったし、根気がいるからね。あの観音様で終わりです。私は農家もやってますからね。うちの家内が一人でやってたもんだから、申し訳なくって。いまじゃ、虫がいたって逃がしてますよ(笑)。
昆虫を作品に使ったアーティストとして、まず思い浮かぶのが、『ファーブル昆虫記』で著名なジャン=アンリ・ファーブルを曾祖父にもつ、ヤン・ファーブルだろう。古代エジプトで神聖視されていた昆虫・スカラベ(フンコロガシ)の羽根や玉虫の鞘翅(さやばね)などを用いた彼の作品は、さまざまな色彩の表層的な美しさに重点が置かれているのに対して、米治さんの作品は、1958年生まれのヤン・ファーブルよりも時代的に先行しているのはもちろんのこと、作品を構成するための造形的な一部として、より多様な昆虫が躍動的に組み合わされ、全て左右対称になっている点が大きく異なっている。
ちっちゃい虫とか大きい虫とか色々な虫を捕らないと、人形の形には出来ないんですよ。だからヒメコガネとかコガネムシ、クワガタやカブトムシとかいろいろな虫が入ってるからね。大体胸から刺していって、見づらくないように片側と同じ虫を拾ってやらないと別個になっちゃうでしょ。ただ、人間みんな顔が違うのと同じで、細長かったり丸かったりと同じ虫ってのは、なかなかいないんですよね(笑)。きれいな虫は首から上に使おうと思ってね。色んな虫を刺しとけば、「これはどこの虫」って観て貰えるでしょ。
「モノづくりには、昔からまったく関心がなかった」という米治さんだが、若い頃に染色の仕事をしていたから、ホルマリンの知識を知っていた。そして、虫が捕れる時代や環境で暮らし、マコモを使った風習もあり、なおかつ夜勤業務の仕事に従事しており、さらに隣にコルク会社があるなど、本人自身は望んでいなくても、米治さんを制作へと向かわせる条件は、まるで運命に導かれるかのように全て揃っていたのだ。
現在の米治さんはと言えば、長い間ホルマリンなどの防腐剤を扱ってきたが、身体を悪くすることもなく、いままで医者にかかったこともないし、薬も飲んでないという。いまも家の周りの畑の草抜きをするなど体を動かすのが日課になっている。とても96歳には見えない、その健康の秘訣について伺うと、
やっぱりね、「動物」だから動かないと、食べ物も食べれなくなっちゃうし体も動かなくなるからね。だから、動いていた方がいいんですね。動けば食べられるし、食べれば動かなくちゃね。
「親父は虫を集めにいったらもう帰ってこない、もう没頭でしょ。うちのことは何もやんなかったし出来ないでしょ。だから元気なんじゃない。何十年も自分のやりたいことだけ没頭してきたからね」と、茂さんは語る。
お金は、ほとんどかかってないです。買ったのは、コルクの板と防腐剤とそれから針だけ。針金なんて、うちにあったものを利用してるし、千手観音を支えてる後ろの曲がった杉の木なんかは、偶然山に生えていたんで、それをとっておいたのが、用を足したんですね。この間、東北の大地震でこの木が折れたんでケースの後ろを外して直したんです。千手観音の本体が乗っている丸い一番上のは、電燈の丸いやつにコルクの板を巻いたもの。本当に廃材ばっかりです。要するに、かかったのは手間だけ。自分が趣味で作ったんだから、とても売る気もないですね。
その言葉通り、1978年、板倉町中央公民館に『千手観音像』は寄贈したものの、「これだけは手元においておきたいから」と、『新田義貞像』はいまも家族の成長を見守るかのように、稲村家の床の間に鎮座している。
追伸: 稲村米治さんは、2017年に97歳で逝去されました。
<初出> ROADSIDERS' weekly 2015年9月2日 Vol.178 櫛野展正連載