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諸岡 知代美「諦めの境地」

1.日本人であること

「かなり特殊な環境で育ってきました」

そう話すのは、福岡市で美容室「ビューティサロンレスト」を経営する諸岡知代美さんだ。

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1969年に福岡県北九州市で生まれた諸岡さんは、2歳半のとき、両親が離婚。

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父親は別の女性のもとへ行ってしまったため、必然的に母親と共に博多で暮らすことになった。

「私の母は在日韓国人なんです。母と再婚していた私の父は日本人ですが、母の最初の結婚相手は同じ在日韓国人で、2人の間に生まれた娘、つまり私にとっては腹違いの姉も在日韓国人です。母の親族たちは、日本に憧れを持っているけれど、日本で差別や苦労をしてきたから、その恨みのようなものが全部私に伸し掛かっていたのではないかと、幼心に感じていました。言葉は分からないけれど、大人たちが私の陰口を叩いていました。もちろん、基本的には可愛がってもらったんですが、『日本人』ということに対して、母方の親族は特別な感情を抱いていたようで、私だけお年玉の金額が少ないなんてこともありました。それでも母は、韓国の歴史や風習などに私を触れさせたくなかったようで、私だけ知らないことが沢山ありましたね」

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美容師の仕事をしていた彼女の母親は、諸岡さんが生まれる前、北九州市の小倉で美容室を経営していたが、父が出ていったことを機に、福岡市博多区の中洲に移転した。

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諸岡さんが中学生になってから、現在の場所へ転居したというわけだ。


2.美容師の道

高校卒業と同時に美容室で働き出した諸岡さんは、美容師歴30年以上のベテランだ。

それでも当初は、美容師になるつもりは無かったという。

「私と同い年の女性が、中学卒業と同時に母の美容室で住み込みとして働き始めたんです。彼女は中卒だったから美容師免許を取るために、働きながら通信教育を受けることになりました。母からの勧めで、同い年で仲も良かったから私も一緒に受講することになったんですよね」

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中学卒業後、東海大学付属第五高校(現在の東海大学付属福岡高校)へ進んだ諸岡さんは、入学と同時に美容師の通信教育の受講を始めた。

当時の夢は、編集者になることだった。

高校では成績も良かったため、大学進学も視野に入れていたが、模擬テストを受けたとき、志望していた文系ではなく理系の科目のほうが良い成績だった。

文系に推薦で行くことができないことがわかると、「興味のない理系へ行くよりは、美容師になろう」と考えるようになった。

先生は残念がっていたが、母は喜んでくれたので、それが諸岡さんの背中を後押ししたようだ。


3.再び九州へ

高校卒業後から、東京都内の美容室で働き始めたが、高校時代に発症した十二指腸潰瘍が悪化し、血を吐いて倒れてしまった。

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「この病気は繰り返すから九州でゆっくり治療したほうが良い」という主治医の勧めなどもあり、1年ほどで帰郷し、福岡の病院で2ヶ月静養したあと、母の美容室で一緒に働き始めた。

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難病患った母の代わりに3年前からは、本格的に店を継ぎ、ひとりで営業を続けている。

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諸岡さんの美容室では、カットやパーマだけではなく、植物エキスを使用して毛穴に詰まった汚れを取り除くことで頭皮や髪を健やかに保つ「頭皮洗浄」をメインに施術を行っている。

店を引き継いですぐ、皮膚の状態が悪く、髪を染めることができない人たちが多く来店するようになった。

「できません」と一蹴するのではなく、どうすれば改善できるかを考えた諸岡さんは、勉強していくうちに13種類のハーブエキスが配合された「ハーブマジック」頭皮洗浄を行うことで、自然治癒力や免疫力を高めることができることを知った。

頭皮の血流を良くしたり排毒を促すことで体質そのものを改善していく「予防美容」の考えに共感し、ハーブマジックの開発者である島計雄氏を師事。

1週間のうち、3日間研修へ出かけ4日間は店で実践をするという休みのない生活を2年続けたそうだ。

これまでカウンセリングを通じて、多くの人が諸岡さんの施術を体験し、ほんらいの健康な姿を取り戻している。


4.叶えたい夢

現在、母の介護も続けながら、諸岡さんは仕事をこなしている。

多忙な諸岡さんだが、どうしても叶えたい夢があるそうだ。

それは、子どもたちの居場所をつくることだ。

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「私が育った地域は公然と売春が行われていた、いわゆる『赤線地帯』でした。友だちは、連れ込み宿を経営していた家の子どもが多かったので、雨が降っても自分の家に入ることができなかったんです。私も子どもだったんですけど、そうした子たちを集めて一緒に遊んでいました。当時は、両親がいるのに寂しい子どもが大勢いたんですよね」

そうした貧困層の子どもを間近で目にしてきた諸岡さんには、いまでも脳裏から忘れることのできない強烈な思い出がある。

それは小学校5年生のときに、近所のスケート場で出会った中学生との出会いだ。

「お兄ちゃんの名前も知らないんですけど、すごく可愛がってもらいました。月初めになると、ハンバーガーやホットドックをいつも買ってくれていたんです。でも、月の後半になると姿が見えなくなってしまうんです。大人になってから、あの少年は一人暮らしをしていて、親が月頭にお金を置いて働きにいってたんじゃないかと思うようになりました。お金の使い方がまだ上手くできないから、後半になると家から出れなくなってたんじゃないかって。それなのに、私は毎月ご馳走になっていて、なんて馬鹿なことをしてたんだと思いましたね。よく私を家まで送ってくれていたんですけど、私が階段を昇っている途中で振り返ると、寂しそうな目をしてこっちを見ていたんです。あの目が一生忘れられません」

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日本では中学校までの義務教育制度が確立されており、高校へも多くの子どもたちが進学している。

しかし、各家庭で経済状況が異なることから、塾に行かせる金銭的余裕のない家庭や奨学金で返済の義務を背負うくらいなら進学を諦める家庭も多いのが現実だ。

こうした教育格差などにより、夢へ挑戦することのできない子どもを後押ししたいと、諸岡さんは本気で考えている。

「どういう境遇で育っても挑戦してほしいし、暗い目をする子をなくしたい。虐待で子どもが亡くなったなんてニュースを聞くと、ほんとうに悲しいし、いつも自分の無力さを痛感してしまいます。だから、金銭的支援ができるように、私はお金を稼ぎたいんです」と唇を噛みしめる。


5.諦めることの真意

お話を伺うなかで、「母が自由な人だったので、私自身も自分が理不尽に扱われていることに対して、『まぁいいか』と諦める癖がついているんですよね」と教えてくれた。

「36歳のときに結婚したんですけど、実はそれまでに別の男性から3度求婚されたことがあります。『サンフランシスコについて来てほしい』『パリ行きのチケットを持ってきた』『地方で親の会社を継ぐからついてきてほしい』と、それぞれ別の理由でプロポーズされたんですが、その度に『住む世界が違うな』『じゃあ、いいや』など諦めてきたんです。美容師として東京から戻ってきたときも、お医者さんから言われるがままでしたから。『東京で働きたかったけど、地元にも友だちいるし』とか『海外に行くと私の自由はなくなっちゃう』とか、いつも物事の二面性を考えて自分を納得させてたんだと思います」

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日本語で「諦める」と言えば、願いを叶えらない、断念するなど、否定的な言葉として使われることが多い。

しかし、漢語の「諦」は「真理」「道理」を意味する言葉であるように、ほんらい「諦める」とは、ものごとの道理や真理を明らかにするという意味だ。

それは、ほんとうの自分を見つめ直す、言い換えれば、あるがままの自分を受け入れるということなのだろう。

諸岡さんは、他者とは異なる生育環境や母の介護など、これまでさまざまな試練を経験してきた。

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そんな彼女が、子どもの虐待死を耳にすると悲しくなってしまうというのは、そこに別の選択肢を想像することができないからなのだろう。

行政主導ではなく、個人レベルで子どもを支援しようとするその姿に、僕は尊敬の念を抱かずにはいられない。

「私は冷たい人間なんです」と謙遜するが、そんなことはない。

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取材の画面越しに、彼女の温もりは伝わってくるのだ。


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