菅 美枝子「信仰とともに」
1.北の台地で
北海道の中央部に位置する北広島市。
1884年に広島県人25戸103人が集団移住したことに端を発し、クラーク博士が見送りの学生たちに「青年よ、大志をいだけ」と名言を残した地としても知られている。
「2023年に北海道日本ハムファイターズの新球場『北海道ボールパーク』がオープンするんですけど、豊かな自然が壊されてしまうんじゃないかと不安に思っている住民もいます」
そう話すのは、同市在住の菅美枝子(すが・みえこ)さんだ。
自然溢れる美しい景観のなか、のびのびと子育てをすることができた大好きな街に恩返しをするため、昨年4月から仕事の合間に市内唯一のコミュニティ放送局「FMメイプル」を手伝い始めた。
菅さんがこうした支援を始めた背景には、その半生が大きく影響しているようだ――――。
2.将来の夢は
1968年に北海道深川市で3姉妹の末っ子として生まれた菅さんは、高校の英語教師だった父の転勤で9歳から札幌へ移住した。
「小さい頃は人見知りがひどくって、近所のおばさんに挨拶されたら、途端にドアを閉めてしまうような子どもだったんです」
札幌の小学校に転校してから、少しずつ人見知りは改善されたものの、ひとりで絵を描くなどして過ごすことが好きだったようだ。
英語が好きだった菅さんは、高校卒業後、藤女子短期大学(現在は藤女子大学へ統合)の英文科に進学。
「高校生の頃、交換留学生と喋ったときに『異なる言語の人でも考えていることは同じなんだな』ということを学びました。人前に立つことは相変わらず苦手だったんですけど、『もっと異国の人とコミュニケーションしたいな』と思うようになったんです。将来は何になりたいという夢はなかったんですが、教員だけにはなりたくなかったんです」
そう語る菅さんは、英語教師だった父だけでなく、2人の姉は音楽教師と幼稚園教諭、そのうえ伯父も大学教授という、言わば教職の家系で育っていた。
あえて教職の道を避けるように、短大を出たあとは、札幌市内の旅行代理店へ就職。
「この仕事って『ありがとう』と人から感謝される仕事じゃないですか。人が喜んでくれるものを売れる、そういう仕事に就きたいなと思っていたんです」と当時を振り返る。
ここで営業業務や旅行用品の販売にも携わるなかで、27歳のとき、1歳年上の夫と結婚した。
3.偶然目にしたチラシ
そんな菅さんにとって転機となったのは、電柱広告でゴスペルチームの公演チラシを目にしたことだ。
もともと歌が好きでゴスペルにも興味を持っていた菅さんはその広告に魅了され、足を運んでみることにした。
「昔から子どもの発表会や友だちの演劇などを観に行くことが好きだったんです。未完成なものや応援シロのあるものが好きなんですよね。そのゴスペルは10数人で少人数のチームでしたが、とにかくリーダーの女性に求心力があって、一気に心を掴まれました」
配布されたプログラムの裏側に「反省会の誘い」があり、参加してみたところ、同じ考えの人たちと意気投合し、チームに加入。
みんなの前で何かすることは得意ではなかったが、「仲間と一緒なら」と歌唱を続けた。
結局そのチームは、リーダーの女性の妊娠・出産により3年ほどで解散してしまったが、チームメンバーから紹介され、スイス人の宣教師による英語の勉強会へ参加するようになった。
英会話のレッスン終了後は毎回、日英対訳の聖書を読む時間があり、菅さんにとっては幼稚園で耳にして以来、久しぶりに聖書の話を聞くことになった。
「両親は浄土真宗だったんですけど、一番上の姉がクリスチャンに改宗したとき、すごく違和感を抱いたんです。ずっと宗教に対してアレルギーを持っていたんですけど、聖書を読み進めていくうちに、うちの母が言っていた内容と同じことが書いてあったことに気づいたんです」
聖書のどこを読んでみても、納得のできる事柄ばかりで、まさに目から鱗だったようだ。
これまで<教員の娘>として生きてきた菅さんは、いつも「しっかりしなきゃ」と世間体を気にしながら過ごしてきた。
しかし、当時はお腹に長男を身籠っていた頃で、これから経験する子育てについていったい何を心の支えにしていけばよいのか分からず不安を抱えていたそうだ。
「私は母の所有物だと思われていたようだけど、聖書では神様からの授かりものなんです。たとえ自分の子どもであっても神様からの預かっているものだから、ひとりの人間として人格を尊重する必要があります。聖書の言葉を土台として愛し慈しんで育て、自立させて社会にお返しすることを目標にしました。」
菅さんは、聖書を支えに生きていくことを決意し、2000年のクリスマス・イブにクリスチャンとして洗礼を受けた。
その後、菅さんは夫の転勤で横浜に転居。
6年ほど過ごし、長男が小学校入学したことを機に再び北海道へと戻ってきた。そんな菅さんにとって二度目の転機となったのは、2003年頃のことだ。
4.使命感を抱いたあの日
「この時期にやたらと児童虐待のニュースがテレビで報道されていたんです。子どもは愛おしい存在なのに、なぜだろうと自分で考え始めました。もしかすると、虐待をしてしまう親も幼少期に両親から虐待された経験があるのかも知れない、そうであれば親自身に適切な介助がなければ無理だし、私はその現場に行かなければならないと使命感を抱くようになったんです」
子どもが好きだったこともあり、「保育士」という言葉が気になっていた菅さんは、通信教育で足掛け10年ほどかけて保育士資格を取得。
45歳から遅咲きの保育士として働き始めた。
「やはり働いてみて、例えば児童養護施設などの虐待の『現場』に行かなければ、そうした子どもたちや親御さんとは出会えないことが分かりました。親御さんと直接対話するためには担任を受け持つなどしなくちゃなりませんし」
そう教えてくれた菅さんだが、自身の選択に全く後悔はないようだ。
各地に認定こども園が増えるなかで、3年の実務経験を経て第二種幼稚園教員免許状を得ることができた。
「保育の現場で経験を積んでいくうちに、いつかは支援が必要な場所へ自然に繋がっていくはずだ」と信じて毎日を過ごしていたとき、まるで導かれたように、パーソナリティの黒田伸や深澤雅一らと知り合うことになった。
彼らのラジオに対する想いを聴くにつれ、その可能性を知り、ラジオ局の応援を始めたというわけだ。
「横浜で子育てをしていたとき、誰とも喋れる機会がなくて孤独を感じることがあったんです。そんなとき、流れてきたラジオに救われたんですよね。孤独の隙間を埋める存在のラジオに大きな可能性を感じています」
振り返ってみると、ゴスペルチームだったり虐待された子どもだったりと菅さんはいつも誰かの背中を後押ししてきた。
決して何かの経験があったわけでも無いけれど、彼女が踏み出すその力強い一歩に迷いはない。
その道の果てには「信仰」があるのだろう。
そんな彼女が支援を始めたコミュニティラジオ局は、いつか灯火のように僕らの心を照らすに違いない。
この声が、いつかあなたのもとにも届くだろうか。
※コミュニティ放送局「FMメイプル」は、ListenRadio(リスラジ)で視聴可能です。
※5枠完売しました。
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