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田村 有樹子 「僕らを導く自由の女神」
1.注目を集めるオンラインサロン
ここ数年で世の中に浸透してきた言葉のひとつに「オンラインサロン」がある。
Web上で展開される月額会員制のコミュニティであるオンラインサロンは、キングコング西野亮廣さんが運営する会員数7万人を超える国内最大のオンラインサロン「西野亮廣エンタメ研究所」を筆頭に、いまや著名人だけでなく一般の人も多く参入するようになった。
そうした中で、元テレビ番組のプロデューサーである田村有樹子さんが手掛けるオンラインサロン「田村Pのここだけの話」(通称タムココサロン)は、開設して1年足らずで会員数2200人を突破するなど、急成長を続けている。
現在はキングコング西野亮廣さんの右腕として活動する彼女だが、芸能人のように表舞台で活躍してきたわけではない。
それでも、不思議なことに彼女を慕って多くの人がサロンに集っているのだ。
いったい、田村有樹子さんとは、どんな人なのだろうか――。
2.小学校での強烈なイジメ
田村さんは、京都市内で1980年に2人姉弟の長女として生まれた。
小さい頃から明るく元気で活発な子どもだったが、小学校5年生のとき、塾でリーダー格の女子生徒の成績を抜いてしまったことが原因で、学校でイジメを受けるようになった。
「クラスのみんなは、自分が標的になりたくないから誰も止めてくれなかったんです。『家を放火するぞ』って脅されてたから、親にも言えなくって」
ストレスで朝食を食べることができなくなり、チックのような症状も出始めていた。
あるとき、同じ塾の友だちが学校で蹴られている場面を親に報告したことで、彼女の両親が知ることになり、父親は「明日から登校させません」とすぐに学校へ連絡を入れてくれた。
生来の負けず嫌いな性格だった田村さんは、そのまま家に引きこもるのではなく、自分の環境を変えるため、朝から塾へ通って徹底的に勉強することで、奈良市内の私立中学へ入学を果たした。
「イジメは無くなったんですけど、小学校のとき、人気者から一人ぼっちになったので、もう人間不信ですよね。また嫌われないために、誰に対しても八方美人でいるようにしました。結果的に友だちは増えたんだけど、自分を演じてるから全然楽しくなかったんです」
3.テニスにのめり込んだ青春時代
そんな彼女に転機が訪れたのは、高校で硬式テニス部に入部したときのこと。
テニス未経験だった彼女は、コートにボールを入れることが出来ず、部活の中で自分が一番下手だと認識した。
そうした状況に直面したとき、おそらく多くの人は、そのまま適当に部活を続けるか、部活を辞めてしまうかのどちらかの道を歩むだろう。
ところが、田村さんは別の選択肢を選んだ。
それは、みんなに内緒で放課後にテニススクールへ通って練習することだった。
次第にテニススクールへ通う回数も増え、週4回ほど通うようになってくると、どんどん技術も上達していった。
「それなりに上手くなったとき、テニススクールでコーチに『今度は試合に勝つためのジュニア選手コースをつくってくれ』と頼んだんです。そしたら『お前だけのために特別にコースをつくるわけにはいかない。4人集めてきたらつくってやる』って言われたんです」
コーチからすると、それは「絶対に無理だから諦めろ」という言葉の代わりだったはずなのだ。
しかし、田村さんは負けなかった。
部活のみんなには内緒だから、テニススクールへ勧誘するわけにはいかない。
そこで、他校の生徒を試合会場で口説き落とし、4人を集めてしまったのだ。
何というコミュニケーション能力なのだろう。
以降、テニスに一層熱中するようになり、「協調性がないからダブルスは出来ないんで」と笑うが、シングルスでは奈良県3位になるなど周囲からも一目を置かれる存在になった。
「そのときは『テニスがあれば良い』って心境でしたね。勉強は全然やる気がなくて、気づいたら学年で下から3番目ぐらいの落ちこぼれになってて。順位が貼り出されるんですけど、あまりにも可哀想過ぎて私の順位になると貼られない状況でした。でも、中学のときは八方美人で、自分から友だちに尻尾振って寄って行ってたのに、気づけば同じ学校の人だけじゃなくて他校の人からも声を掛けられるようになったんです。自分が頑張っていれば、そこに人は集まってくれるんだってことを体験できて、それがいまの私の原点になってますね」
卒業後は、一浪の末、中学時代からの念願だった同志社大学へ進学。
ここでもテニスに青春を捧げ、「寝てても単位が取れる授業しか選んでなくて、友だちに『代返』を頼みまくってました。卒論が要らないゼミを選んでたから、卒論も書いていないんです」と話す。
「小学校のときに『ブスだ』とイジメられたトラウマがあって、自分のビジュアルが好きじゃなくって、小学生で『自分は可愛くないんだ』ということを悟ったんです。だから、『このビジュアルじゃあ、きっと結婚はできない』と大学のときに感じて、とにかく仕事ができる人になろうと。結果さえ出せば人は寄ってきてくれるし、仕事は顔じゃないなと思ったんですよ。女としての幸せは、美人には負けるかもしれんけど、美人で仕事できんやつとブスで仕事できるやつ、どっちが仕事で需要あんねんって言ったら、ブスで仕事できるやつやなと思って」
4.テレビ業界へ
いくつか内定を貰ったなかで、田村さんが選んだのはテレビ番組の制作会社だった。
しかし、食事中にテレビは禁止、バラエティ番組も観てはいけないという厳格な家庭で育てられたため、小さい頃からテレビ業界に憧れていたわけではない。
「若いときは性格が負けず嫌い過ぎたので、他の人が営業で3本仕事を取ってきたら、私は身体を売ってでも5本取りたいと思うタイプだったから。まぁ売れるかどうか、実際に差し出すかどうかは別として。そのまま営業をやったら、結果を出すかもしれないけど排他的過ぎて寂しい人生になるんじゃないかなと思って、チームで出来る仕事として浮かんだのがテレビ業界だったんです」
テレビ東京系列で2004年4月からゴールデンタイムに放送されていた人気番組『所さん&おすぎの偉大なるトホホ人物伝』のADを担当。
ところが週150時間ほど働き、仕事に全てを捧げてきた彼女の働き方は、労働基準法という縛りの中で、次第に社内で孤立するようになってしまった。
そんなときでも、田村さんの決断はいつも早い。
「もっと働きたいのに労働基準法ってなんなん?そんなんでやる気潰されるんやったら辞めるわ」と24歳のADが独立し、仲間と共に映像制作会社を立ち上げ、プロデューサーと名乗り出す。
様々な番組を制作する中で、2014年から担当した読売テレビ系の番組『ガリゲル』でMCだった西野亮廣さんと出会った。
「仕事は順調だったんですけど、私は社員の給料や体調を気にしすぎる面があって、人のことばかり考えて生きていかなあかんのは嫌やと思って、30代前半で会社を辞めたくなったんです」
悩みに悩んで36歳になる直前に退職。
これからの自分の人生を考え直したとき、どうやって生きていこうかと思いを馳せた。
そんなとき、昔から芸人や経営者仲間から言われていた「田村さんはスナックのママに向いている」という言葉を思い出し、「人から何かに向いているって言われることなんて、いままで生きててなかったから」と、六本木のバーで雇われママとして働き始めた。
5.六本木のママに転身
小学校のとき、女性からイジメを受けた経験から、それまで女性に対して嫌悪感を抱いていたが、ママをしていたときに女性客からたくさん慕われたことで、苦手意識を払拭することが出来た。
そして、何より「お金の正体を知ることが出来た」と語る。
店に来てくれたお客さん同士を繋ぐことで、お客さんの新たな仕事に繋がることもあった。
紹介料を貰っていたわけではないが、それが結果として、お店に還元される機会も多かった。
また、あるときは、フェイスブックで自己破産を考えている女性の投稿を目にした。
「話だけで楽になれるんだったら、いつでも来て下さい」とメッセージを送ったところ、店に来た女性から、「自己破産する前にiPhoneの本体代7万円を支払わなければ、携帯を取り上げられてしまう」という話を打ち明けられた。
「1回しか会ったことない人だったけど、私が何かで7万円使うより、この女性にあげるほうが7万円の価値は高いだろうから」と惜しげもなくお金を渡したという。
特にそれが自分のもとに返ってくるなんて考えてはいない。
損得勘定など抜きにして自分が正しいと思ったことをやり抜く。
これが田村有樹子さんの生き方なのだ。
6.後悔しない人生
その後も、全国各地で成人式が行われた2018年1月8日に「はれのひ株式会社」が突然閉鎖して、成人式に振袖を着られない成人が続出することが分かると、西野亮廣さんに相談し、同年2月4日に新成人数百名を対象にヘアメイクや着付け、振袖を提供し、そのうえ船上ディナーまでプレゼントするという豪華な「リベンジ成人式」を企画開催した。
誰もやったことのないことを実現させた田村さんだが、あまりの多忙さ故に、バーで通常の接客をすることは叶わず、店の売上は激減してしまった。
しかし、イベントが終わったとき、様々な人たちが田村さんに会うために店を訪れ、過去最高の売上をあげることができた。
今年、コロナ禍で誰もが困り果てていたときには、SNSで人や店の宣伝をし続けた。
そうした地道な努力が報われたのだろうか。
6月に仕事で北海道を訪れた際、堀江貴文さんの小型ビジネスジェット機に乗って東京に戻ることが出来た。
まるで神様からの贈り物のように感じたそうだ。
そして翌月、熊本・鹿児島が豪雨水害に見舞われると、彼女はいち早く被災地に駆けつけ、現在も継続して支援活動を続けている。
自分の直感を信じ、常に前向きに行動し続ける等身大の姿に、誰もが共感し、彼女に夢を託すのだろう。
インタビューの最後に、「いつ死んでも良いと思ってますね」と教えてくれた。
誰もが後悔しない人生を過ごすことを望んでいる。
でも、「あのとき、ああしておけば良かった」と頭を過ることもきっと少なくないだろう。
彼女のこれまでの生き方は、まさに後悔しない人生を体現しているかのようだ。
西野亮廣さんの「やれよ!」という無茶振りに応える形で渋々始まった彼女のオンラインサロン「田村Pのここだけの話」。
サロンの中では、次に田村さんが何をするのか、みんな心待ちにしている。
思ったことをすぐ口にするけれど、涙もろくて、飾らない。
そんな田村有樹子さんは、僕らを導く自由の女神なのかも知れない。
※5枠完売しました。
※10枠完売しました
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※25枠完売しました
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