石田 頼子「解きほぐす女性」
1.サルサダンスを踊る恋愛コーチ
男女がペアになって踊る「サルサダンス」は、男性でも女性でも年齢関係なく楽しめるペアダンスとして知られている。
全くの初心者からこのサルサダンスにのめり込み、夫婦でダンス教室の運営をしているのが石田頼子(いしだ・よりこ)さんだ。
石田さんは、近年では「サルサダンスを踊る恋愛コーチ」としても知られている。
なぜ石田さんは、この奇妙な肩書を名乗るようになったのだろうか。
それは石田さんのこれまでの人生から読み解くことができる――――。
2.サルサとの出会い
石田さんは、1971年に熊本で3人きょうだいの長女として生まれた。
転勤族だった父親の影響で、出生後に関東地方へ家族で転居。
「小学校5年生のとき、横浜の小学校に通っていたんですけど、クラスの女子全員から無視されるようになりました。もともと気が強くて生意気で、スポーツ万能で頭も良くて目立つ子だったんですよね。当時は、父が闇競馬に溺れていて、借金もたくさんあったんです。両親も不仲だったから、『迷惑かけちゃいけない』と思って誰にもイジメのことを相談できませんでした」
2年ほど続いたイジメだったが、ちょうど小学校を卒業するタイミングで、父親の転勤により今度は栃木県に家族で引っ越すことになり、偶然にイジメから逃れることができた。
大学卒業後は、テレビ番組制作会社のADを経て、青年海外協力隊に志願した。
南米のコロンビアに派遣されることになり、出発前に日本で合同合宿を受けていたとき、出会いは訪れた。
「主に語学を習ったんですけど、『ラテンの国へ行くんだったら、このダンスを覚えなきゃいけない』と紹介されたのが、サルサダンスだったんです」
コロンビアでは市役所に勤務することになったが、石田さんの歓迎パーティで突然にサルサダンスを皆が男女ペアになって踊り始めた。
石田さんも持ち前の運動神経を活かして見様見真似で踊ってみたものの、どの男性からも誘ってもらえなかったようだ。
「気づけば、受付にいた40代のおばさんが引く手あまたに誘われていたんです。『踊れなくっても生きていける』と一気にサルサが嫌いになりましたね。でも、3年の任期を終えて帰国したら、驚いたことに日本でサルサブームが起きていたんです」
帰ってきたあと、本場のコロンビアに赴任していた経験から、妹とその友だちからダンスクラブへ誘われたが、妹たちの踊りのほうが石田さんより圧倒的に上手かった。
普通の女性であればそこで自分を卑下して諦めたかも知れない。
しかし石田さんは、「負けてたまるか」と一念発起。
28歳からサルサ教室へ通い始めたというわけだ。
3.女性らしさとは
「男性の先生から、『踊るときに力が入っているし、君はいつもひとりで踊っている』と注意を受けたんです。男性のリードに従っているつもりなのに、どういうことだろうと思いましたね」
決定的だったのは、ダンス教室内でイベントが開催されたときのこと。
一巡目に先生と踊ったあと、二巡目からは先生は石田さんを飛ばして他の女性たちと踊っていた。
「嫌がらせではないか」と尋ねたところ、「あなたは生物学上は女性かも知れないけど、僕にとっては女性ではない。全く男の人を見ていないよね。君は自分のペースで踊ってるから、僕には要らない」と指摘された。
その言葉にひどく落ち込み、一時は退会することも考えた石田さんだったが、「男の人と一緒に踊って楽しかったと言われたい。女性らしいってなんだろう」と継続することを決意。
私生活でも、女性らしさを全面に出すことを嫌っていた石田さんだったが、化粧の仕方を覚え、まずは外見から自分を磨き始めた。
「次第に『垢抜けてきたね』と言われるようになりました。踊っているときも相手に合わせることを意識するようにしたところ、男性の生徒から『一緒に踊ってほしい』と声を掛けられるようになったんです」
教室内でも人気を獲得し始めた石田さんに、先生から「一緒に働いてくれないか」と声が掛かり、2002年からはアシスタントとして指導的立場を任されるようになった。
ちょうどその頃、私生活では離婚を経験。
1年半の結婚生活だった。
そのあと、教室で同じアシスタントとして知り合った4つ上の男性と恋に落ち、2003年に2人で独立して「東京キューバンサルサ」を設立。
都内にスタジオを構えた。
「いちど離婚しているから次に再婚する理由が見つからなかったんです。サルサの先生から『遅咲きでもプロとしてやりたいのなら、子どもを産んで、それでもなお、踊り続けたほうが良い』とアドバイスを頂きました」
出産や育児はダンサーにとっては不利な状況だが、そこまでの覚悟を見せるべきだという言葉に石田さんは納得し、翌年には出産を機に再婚。
いまでは3児の母として踊りを続けている。
4.突然訪れた悲劇
そんな石田さんにとって転機となったのは、2013年のこと。
統合失調症の診断を受け、自宅で過ごしていた弟が36歳で自死。
不仲だった両親をつなぐ存在でもあった弟の死により、まるで緊張の糸が切れたかのように母が70歳の自身の誕生日に実家を出ていき、両親は熟年離婚した。
さらに悲劇は続く。
翌年2月には、喉頭蓋が細菌感染により腫れる急性喉頭蓋炎を患い、予想以上にそれが肥大していたため気管切開手術を受けた。
同じ年の8月には、生徒を連れて訪問したキューバで高台から落下し、左手を5箇所骨折。
キューバで緊急入院・手術を経験した。
「ちょうど運営するダンス教室の業績が振るわず、頑張ろうとしていた矢先で、夫とも喧嘩が絶えませんでした。ダンス以外のビジネスをするために起業塾に通うようになったんですが、それぞれ見知らぬ4人から『いまはビジネスじゃなくて自分と向き合ったほうが良いよ』と言われたんです。それで、ひとり暮らしをして自分のことを見つめる時間をつくることにしました」
ウィークリーマンションを借りて、自身を内観する時間をつくったものの、いつまで経っても明確な答えは出ない。
夫に電話しても子どもたちと会えない辛さから最後は夫を責めてしまう日々が続いたようだ。
答えを求めてカウンセリングに通ったところ、石田さんの口からはどんどん夫の悪口が続く。
しかし、最後に心の底から吐き出したのは両親や弟のことだった。
「『弟が亡くなったのは両親のせいだ』と心のなかで両親を恨んでいたようでした。私自身が両親との問題を解決していないことが分かりました。特に、母が父と一緒にいるとき、女としての幸せを諦めていたことも私は嫌だったんです。その頃の母は再婚していたから、母や再婚相手に私の気持ちをぶつけてみたんです。母も私を泣きながら抱きしめてくれて、これまでの想いを浄化することができました。いままで気づかなかったんですが、私はずっと夫と2人で教室を運営することに執着していました。2人で仕事を続けているうちは、両親のようにはならないだろうと感じていたようなんです」
5.優しく解きほぐす人
こうした紆余曲折を経て、石田さんは2年前から「恋愛コーチ」を自称し、恋愛コンサルタントの活動も始めた。
もともと教室の生徒から恋愛相談を受けることが多く、自身の経験に加えてサルサダンスの中で求められる「男らしさ」や「女らしさ」が恋愛にも活かせるのではないかと思ったことがきっかけだ。
これまで30人ほどのコンサルを実施し、ひとりあたり3ヶ月から半年という長い時間を掛けてサポートを続けている。
「相談の入り口としてはパートナーが欲しい人が多いんですが、それは本質的な悩みでないことが多くあります。確かにLGBTなど多様な性の形はありますが、人であることの本質は男と女だと思っていて、2人という単位を大切にして欲しいと感じています。この思いは、ダンスやコンサルに通じていて、相手の存在は鏡であり自分のことを映し出してくれるものだと思っています」
石田さんが続けてきたサルサの語源は、フランス語の「ソース」で、「いろんなものが混ざる」意味だと言われている。
サルサダンスを眺めていると、他人と競わず自由なペアダンスをそれぞれが踊っていることに気づく。
この即興性というフリースタイルこそがサルサの魅力なのだろう。
1曲の中で繰り広げられる踊りは男女のドラマのようでもある。
愛していたはずなのに憎しみ合ったり、分かりあえていたはずなのに相手の言葉が通じなくなってしまったり、ときにはストーカー行為をしてしまったりなど、いつの時代でも男女の間には厄介な揉めごとが生まれている。
複雑に絡み合ったマーブルのようなそうした男女の関係性を優しく解きほぐしてくれるのが、石田さんのような存在なのだろう。
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