倉橋 岳「進化するナゴヤ」
1.その名は、倉橋岳
「虫かごを持って、『たも(虫取り網)』を持って、懐中電灯をつけて、ゲーム機をポケットに入れて自転車にまたがる。小さい頃は、そんな何でもとにかくやりたがる多感な子どもでした。いま、まさにそんな風になっているんですけどね」
そう話すのは、愛知県名古屋市在住の倉橋岳(くらはし・がく)さんだ。
倉橋さんは、2009年から地域を盛り上げるためのPR隊に就任。
その一方で、名古屋市千種区本山には鯖寿司や特製味噌、手作り和菓子で有名な店舗「花誠」のオーナーを務め、近年は自身のオンラインサロン「GAKU salon〜ナゴヤ・アップデーターズ〜」を立ち上げるなど、生まれ育った名古屋を盛り上げるための活動を次々と展開している。
倉橋さんは、1981年に名古屋市で5人きょうだいの長男として生まれた。
小・中学校の頃は人前に出るのはそれほど得意なタイプではなかったが、学級委員などに推薦されることも多かったようだ。
「『恥ずかしくない』と自分に言い聞かせて頑張っていました」と当時を振り返る。
「男女ともに友だちが多くて、仲の良い友だちだけではなく、色々な友だちの家に遊びに行くことが好きだった」というから、いまに至るコミュニティづくりの原点は、この時期に育まれていたのかも知れない。
2.15歳で渡米
「中学卒業後は、親の教育方針により、子どもたちは『海外で勉強するか』『社会へ出て働くか』という二択を迫られるんです。まだ働きたくはなかったから、海外で留学することを選んだんですが、めちゃくちゃ大変でした」
2歳上の姉と同じアメリカの高校へ渡米したものの、英語が十分に理解することができず、とても苦労したようだ。
「最初の半年間はノイローゼのようになって、毎日野原を眺めていました。成績が悪くなると退学させられてしまう進学校だったので、僕なりに頑張っていましたよ」と笑う。
高校業後は、父と同じ建築家を目指して大学進学を決意。
ワシントン州のコミュニティ・カレッジで2年間学んだあとは、編入学の形でワシントン大学へ進学し、建築を学んだ。
その間、20歳のときには日本で母が立ち上げた店舗「花誠」がオープン。
朝は店の経営に携わり、昼間は名古屋にある父親の設計士事務所で働き、夕方からは通訳の仕事に携わるなど、日本で多忙な仕事をこなすようになったため、大学を中退する形で、24歳ごろからは日本での生活を始めた。
「幸いなことに、愛知県内で自分が設計した家が建つことになったんです。『自分で家を建てる』という子どもの頃からの夢が早い段階で叶ってしまったので、次のステージを目指したいなと思うようになりました」
3.ナゴヤをアップデートする
15歳から海外で過ごしてきた倉橋さんにとって、いつも問われるのは日本のことだった。
俯瞰的に母国を見つめ直していくうちに、自国の文化、特に生まれ育った名古屋について思いを寄せるようになったという。
2009年には、名古屋の街まるごとをキャンパスに見立てた学びの場とするNPO法人「大ナゴヤ大学」の設立に寄与した。
すべての仕事を停止し、NPO法人の設立に携わっていたため、収入がゼロになることもあったが、名古屋に携わる仕事に関わりたいと思っていたときに、PR隊の存在を知り、応募したというわけだ。
倉橋さんは、いまや全国のPR隊文化を牽引する存在となり、メディア出演だけでなく、国内や海外にも多数遠征に出かけ、開始10年で数百億円もの経済効果を打ち出している。
そして、2018年には名古屋工業大学大学院で社会工学部の修士課程を卒業し、翌年からは同大学院博士課程へ進み、研究を続けている。
「地域を盛り上げるPR隊として長く活動を続けているなかで、PR隊は全国各地に広がっていますが、未だ認知度は低いと感じています。これでは世の中に存在していないのと同じことなんです。自分たちの活動を学術的に定義する必要があると思っていて、そのために大学院で研究を続けています」
そんな倉橋さんにとって転機となったのが、2019年に母親が脳出血で倒れてしまったことだ。
幸いにして倒れた1分後には救急車に乗せることができたため、一命は取り留めたものの、一時は命も危ぶまれる状態だった。
そこから、母親が生きている間に親孝行をしたいと思うようになったそうだ。
「幼少期に友だちの家から母に『夜まで遊ばせて欲しい』と電話をしたら、『あなたが楽しいんだったら、遊んでらっしゃい』と許してくれたんです。普通の親だったら、『迷惑が掛かるから早く帰って来なさい』と咎めてしまうと思うんです。でも、母は僕の気持ちを優先してくれました。そのときの記憶が蘇って、母のためにも僕自身が幸せに生きていく姿をみせなきゃいけないと思うようになったんです」
そう語る倉橋さんは、PR隊の中心人物としてではなく、やりたいことを後悔なく過ごすため「倉橋岳」として名古屋を盛り上げるべく有料オンラインサロン「GAKU salon〜ナゴヤ・アップデーターズ〜」を立ち上げた。
サロンメンバーと一緒に日本の伝統的工芸品にも指定された「名古屋黒紋付染」を広める活動を行うなど、メンバー同士が相互に連携しながら活動を進めている。今年9月には、名古屋のテレビ塔を舞台に4000人規模の「ナゴヤアップデート祭」を企画していると言うから、多くの人を巻き込んだイベントになることは間違いないだろう。
4.進化するナゴヤ
オンラインサロンの合言葉は「ナゴヤをアップデートする」ということだ。ここでいう「名古屋」とは片仮名の「ナゴヤ」であるという点が、とても興味深い。
倉橋さんの活動は、名古屋を中心に概ね半径100kmに拡がる「グレーター・ナゴヤ」と呼ばれる経済圏がベースになっている。
「誰しも見知らぬ土地に行くと、不安を感じてしまいます。いっぽうで、自分が慣れ親しんだ場所だと、自分のことをよく知っている人も多く、例えトラブルに巻き込まれたとしても手を差し伸べてくれる人がいるかも知れません」
行政区分で区切るのではなく、自分たちが心地よく暮らすことができる生活圏が半径100kmということなのだろう。
そして、その活動の根底になっているのは、まちを楽しむという視点だ。
現在、各地で展開されている「まちおこし」では、新たな産業の創出や企業の誘致などによって雇用を生み出し、まちを活性化させるという試みが大半を占めている。
芸術文化の力によって、まちに潤いをもたらすという手法だってあるだろう。
ところが、その多くはトップダウンで決められており、継続性が難しく、先進地域の模倣に陥り、結果として失敗してしまう事例も多い。
必要なのは、「わがまち」として地元に愛着を持ち、自分たちが楽しみながら過ごしやすい「まち」をつくることだ。
そうしたときに、倉橋さんが展開する活動は、多くの人にとって大きな指針となることだろう。
倉橋さんが、これから「ナゴヤ」をどのような場所に変えてくれるのか、僕は楽しみで仕方がない。
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