原田 卓央「流れる雲のように」
1.北の大地で
北海道南西部の太平洋に面する町、白老町(しらおいちょう)。
人口17,000人ほどの小さな町に、「ピノ動物病院」はある。
獣医師の原田卓央(はらだ・たくお)さんが、2003年に開院し、今年で17年目を迎える動物病院だ。
現在47歳の原田さんは、1973年に北海道岩見沢市で2人兄弟の長男として生まれた。
ホクレン農業協同組合連合会で働いていた父の転勤で、岩見沢市、北見市、標津郡中標津町と道内で転居が続き、10歳からは札幌市で過ごした。
「住んでたところは、ちょっと郊外に出ると自然豊かな環境だったんです。小学校の頃は生き物係をしていたこともあるし、社宅のため犬や猫は飼えなかったんですが、モルモットを飼っていましたね」
小さい頃から、生き物が好きだった原田さんは、『ファーブル昆虫記』に憧れ、将来は昆虫博士になりたいと思っていたが、両親から「それじゃあ、飯が食えない」と言われ、断念。
2.獣医師への夢
中学生の頃からは、獣医師への夢を抱くようになった。
中学時代は野球部に在籍し、高校は札幌市内の公立高校へ進学した。
「最初は友だちに誘われてテニス部に入ったんですけど、友だちが部活に馴染めず辞めちゃったから、自分も一緒に辞めたんです。でもテニスは好きだったから、友だちの家の近所にあった無料で使えるテニスコートで、自分たちでテニスを楽しむようになりましたね。毎日テニスをやってたから上達したんですけど、どこかに所属してたわけじゃないから、大会とか出たことなかったんです」
通っていた高校の進学率は、半分ほどで、進路相談のとき、学校の先生に「獣医師になりたい」と言ったところ、鼻で笑われて「うちの学校から獣医系の大学に行けたのは、ひとりしかいないんだぞ」と釘を刺された。
悔しくて仕方なかったが、最初の受験は失敗。
予備校に通い、先生から嘲笑された悔しさをバネに、二浪の末、私立の酪農学園大学酪農学部獣医学科に合格することができた。
「浪人までして、僕がやりたいと思ったことをやらせてくれた親には感謝してます。三浪するんじゃないかと思ってて、獣医学以外も受験して受かってたときに、『とりあえず入学金を払おう』と言われたときは、親と大喧嘩しましたよ。僕の目的は獣医学科に入ることでしたから。もう二浪までしてたから、こっちも意地でしたね」
3.テニスに捧げた生活
獣医学科では公衆衛生学を専攻し、人獣共通感染症のひとつである「Q熱」の研究に携わった。
特段、それを学びたかったわけではなく、「余った時間でテニスができそうな研究室だったから」という理由が何とも原田さんらしい。
1年次からテニス部に入部し、試合に勝つための練習を重ねた。
「あるとき、『全日本学生テニス選手権大会(インカレ)に出場したい』と先輩に言ったら、『いつになったら行くんだよ』と馬鹿にされたんです。大学の部活は、高校で活躍した人が入部してたんですけど、僕はいままで試合に出たこともなかったですからね。でも、部活をやってた人と同じくらいは練習してきましたから。運動することは好きだったんですけど、練習は嫌いだったんで、短期間で効率良い練習を心がけてましたね」
そうした努力の甲斐もあり、シングルス戦では道内5位の成績を収め、全国大会にも出場することができた。
大学生活の6年間をテニスに捧げ、26歳で卒業したあとは、富山県滑川市でテニス部の先輩が開業した動物病院に研修医として勤務した。
先輩もテニスが好きだったため、先輩と一緒に仕事前の朝練から始まり、仕事を終えてもテニスの練習というテニス三昧の生活を送ったようだ。
「研修医という立場だったから、自分のやりたいことはできず、指示されたことをただやるだけでした。人間関係にも悩んでいましたね。ひとり暮らしをするのも初めてだったし、慣れない土地ということもあって、正直つらかったです」と当時を振り返る。
28歳のときには、2歳年下の富山の女性と結婚し、2人の子どもを授かった。
そして研修医として3年働いたあと、北海道へ帰郷し、白老町に「ピノ動物病院」を開院したというわけだ。
4.動物病院を建てたわけ
「ピノ」と言う名前は富山で飼っていた亀の名前と、手塚治虫の漫画『ブラック・ジャック』に登場する女の子「ピノコ」から着想を得て名付けた。
「札幌で開業することも考えたんですが、なにしろ競合も多いでしょ。祖母の知り合いが白老町にいて、『町に動物病院がないから隣町まで受診に行っている』という話を聞いて、『どうせやるんだったら、喜んでもらえる場所が良いな』と思って、この町で開院したんです。そしたら、病院を建ててるときに、町内に別の動物病院も建設してて驚きましたよ。おんなじこと考えてる人がいたなんてねぇ」
現在は、妻にも経理担当と動物看護師として働いてもらいながら、数名のスタッフで運営を続けている。
診療だけでなく、ペットのトリミングなども行っているため、トリミング時の健康状態から病気が発覚することもあるようだ。
原田さんは、専門的な言葉や難しい言葉は使わないように配慮している。
患者目線の話しやすい雰囲気を心がけ、いつも親身になって話を聞いている。
その献身的な診療姿勢は評判を呼び、開院当初から「近くにできて助かりました」「遠くまで行かなくてすみます」など地元の人たちに喜ばれてきた。
しかし、高齢者が多いこの町では、そもそもペットを病院に連れて行く習慣のない人や、年金暮らしのために経済的な理由でペットの治療が継続できない人もいる。
動物病院に限ったことではないが、地域の高齢化や過疎化が進むなかで、人口減少に対する収入源の不安は常に付きまとう。
そうなったときに、多くの人が考える選択肢は、別の地域に移転をするか、この場所に留まるかのどちらかだろう。
しかし、仮に移転するなどして病院経営を広げていっても、また別の地域で過疎化など同様の事態が起こる可能性も否めない。
そこで、原田さんは、別の選択肢として、収入源をもうひとつ確保することを選んだ。
なんと10年ほど前から、万が一の事態に備えて、アパート経営を始めていたというから驚きだ。
5.雲のように生きる
「実は、中学生のときから不動産に興味がありましてね。僕は、どうもテニスの練習もそうなんですけど、サボり癖があるみたいです。いまも、お陰様で動物病院を続けることができていますが、逆に言えば、自分が病院勤務に縛られているもどかしさを常に感じています。インターンをしたときに、『組織に向いていないな』というのをすごく感じたんです。世の中には、僕のように縛られることが好きじゃない人も大勢いると思います。そうした人たちが集まって働くことのできるような会社を将来的にはつくってみたいですね」
原田さんが言うように、閉塞感が漂う現代社会において、何らかの「生きづらさ」を抱えている人は、近年ますます増加している。
世の中は、目に見えない常識や価値観に従順な人を常に求めているが、そうした生き方に適応できない人も多い。
いま必要なのは、ルールに従わせることではなく、互いの生きづらさを認め合い、肯定しあえるアジールとしての居場所の存在だ。
振り返ってみると、自分たちだけでテニスの練習ができる場をつくったり、みずから動物病院を開院したりと、原田さんは常に自分の生きやすい環境をつくることを実践してきたように思う。
あの空を流れる雲のように、常に形を変えながら、今後も柔軟に変化を続けていくことだろう。
いまはまだ暗雲かも知れないけれど、原田さんが動き出したとき、雲の隙間から、きっと光は射していく。
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