濵田 潤「人生は続いていく」
1.波乱万丈な人生
「いまは福祉器具のレンタルを行う事業所に勤務しています。1週間休みをとったりすることができるから、休みの日は、旅行に行くこともありますね」
49歳になる濵田潤(はまだ・じゅん)さんは、1971年に大阪市内で2人兄妹の長女として生まれた。
現在は、枚方市に住んでいるが、これまで20回ほど転居を繰り返してきたそうだ。
「波乱万丈な人生だったんですが、ようやくいま落ち着いて生活しています」と語る。
2.不倫の果てに
濵田さんが高校へ入学したことを機に、両親は離婚。
母方へついた濵田さんだが、バイトに明け暮れ、家を飛び出して6歳年上のバイト先の店長と恋に落ちた。
結婚も視野に入れて同棲生活を始めたものの、わずか7ヶ月で彼は実家の理容室を継ぐために田舎へ帰郷してしまう。
遠距離恋愛になってしまったが、濵田さんは彼のもとに嫁ぐため、理容美容専門学校へ入学。
学費を捻出するために、年齢を偽ってスナックで働き始めたが、40歳の常連客と不倫関係になってしまい、そのまま高校を退学した。
「相手の子どもは14歳だったから私と2つしか違わなかったんです」と微笑む。
既にドロドロした昼ドラの世界だが、ここから人生はさらに流転していく。
3.結婚、そして出産
「18歳になる頃に、急に熱が冷めて不倫関係は終わりました。そのあと、33歳の男性と『できちゃった婚』をしてしまうんです。彼は無職だったんですが、私は19歳で長男を出産しました。妊娠中に腎盂腎炎になって入院していたんですが、出産後も40度くらいの高熱が続いて、お医者さんからは『このままいくと透析をしなければなりません』と言われたので、母のもとへ帰郷し、静養することにしました」
自分の子どもを抱くことができないほど衰弱していた濵田さんは、長男の世話は母に任せ、生活保護を1年間受給しながら身を休めた。
身体の様子を見ながら何度か夫のもとを訪れていたが、しばらく離れて暮らしているうちに気持ちが冷めてしまい、21歳で離婚した。
「養育費はいらないので別れてもらいました。その代わり、生活費を稼ぐために昼は近所の会社で、夜はスナックでと休みなく働きました。そして、22歳のとき、運命を感じて、勤め先の常務と結婚したんです。翌年に次男を、その翌年には三男を出産しました」
ところが、あるとき夫がカード詐欺の容疑で逮捕されてしまった。
気づけば夫の借金は1000万円に膨れ上がっており、取り立ての電話や家に借金取りが訪ねてくることもあったという。
必然的に水商売の仕事へ戻らざるを得なくなり、少しずつ借金を返済していった。
「水商売でも返済できなかったら、身体を売ることも考えていました」と当時を振り返る。
25歳になったとき、夫は服役を終えて出所した。
濵田さんが仕事から帰宅した際、長男は寒い場所で布団も掛けずに小さくなって寝ていたのに対して、夫は暖かい場所で夢中になってテレビを観ていた。
その光景を目にしたとき、彼女は離婚を決意した。
4.大家族での暮らし
27歳のときに離婚が成立し、再び子どもたちとの生活が始まった。
ところが、子どもたちを預かってもらう保育園が見つからず、働くことができなかったため、濵田さんは2度目の生活保護を受給した。
翌年からは、子どもたちを保育園に預け、鏡専門店で働き始めた。
「店の社長さんから応援を受けて、パートから社員に昇格してもらうことができたんです。ただ、その店でかつて女性で正社員に昇格した人はいなかったから、他の人たちから妬まれてイジメを受けました。生活保護の受給を辞めることはできたんですが、そこの社員さんと恋に落ちて、『今度こそ』という思いで30歳のとき、3度目の結婚をしたんです。夫は、子どもたちと一緒に野球をするなど子煩悩で良い人でした。子どもたちも彼になついていました。夫の両親と私の母親、私たち夫婦、そして子どもたちという8人家族での暮らしが始まったんです」
しかし、幸せそうに見えた家族だったが、小学生だった次男が万引で補導されるなど、少しずつ歯車は狂っていった。
濵田さんは子どものために家にいる時間を増やそうと出勤時間を減らしたものの、子どもたちは母から距離を置く一方だった。
濵田さんの収入は減少し、頼りの夫の会社も不安定で月の手取りが8万円程のときもあった。
そのうえ、夫は浪費家だったため、次第に借金も増えていった。
家庭内でも夫の父親と濵田さんの母親との関係が悪化し、家族は逃げ場もない状況だった。
さらに、追い打ちをかけるように、濵田さんに乳癌が見つかった。
「いままで『頑張ればなんとかなる』と思って生きてきたんです。でも、金銭的にも身体的にもしんどくって、『これ以上は頑張れないな』と初めて下を向くようになりました」
5.人生を変えたい
そんなとき、子どもの友だちの母親に道端で偶然声を掛けられた。
コーチングの仕事を始めたという話を聞き、彼女からアドラー心理学に基づくコーチングを受けることにした。
自分が、なぜいまの状況に陥ってしまったのかをひとつひとつ紐解いてもらったことで、そうした環境に自ら身を委ねてしまっていたことに気づいたそうだ。
「今後こそ、人生を変えよう」と決意した濵田さんは、彼女からの紹介でブレンドハーブ健康茶のネットワークビジネスの活動を始めた。
「ネットワークビジネスでは、利益を上げるために別の人を勧誘する必要があったから、それまで繋がっていた人たちは離れていきましたね。もともと、私には大した友だちがいなかったんですけどね。いままで無理して付き合っていたんだと思います。旦那さんも最初は賛同してくれていたんですが、彼は途中でやらなくなって、そこから温度差を感じるようになりました。夫婦で一緒に人生を変えようとしたんですが、途中から『この人とじゃないな』と思うようになったんです」
3度目の結婚生活は、5年で破局となった。
そして、ネットワークビジネスの顧客を求めて、都会へセミナーを受講しに出かけていた濵田さんは、そこで現在のパートナーになる男性と出会った。
「彼が会社の経営者だったから、最初は良いターゲットが現れたと思ったんです」と笑う。
その彼の紹介で、9年前からは、アルバイトとして建材の販売会社を手伝っていたが、会社の事業が拡大してからは、正社員として事務職で働き始めた。
そして、その会社が介護業界にも参入することになり、老人関係のデイサービスで管理者として抜擢されたのが濵田さんだった。
福祉業界の経験は皆無な上に、周りのスタッフはベテラン揃いだったというから濵田さんのプレッシャーは相当なものだっただろう。
「明るくて気さくで人懐こい人ということで、なぜか私が管理者に専任されたんです。支援業務は他のスタッフに任せて、素人の私は、とにかくお客さんを集めてくる営業仕事に徹することにしたんです」
「できない」「わからない」ということを素直に口にできる濵田さんは凄い。
それが、他スタッフを信頼して仕事を任せるということにも繋がっているのだろう。
濵田さんの事業所の離職率は低く、いまだに創業時のスタッフが働き続けているというから、お互いに尊重しあえる素晴らしい職場環境だったということは容易に想像がつく。
現在は、福祉器具のレンタルを行う事業所へ異動となっているものの、充実した日々を過ごしているようだ。
6.幸せな日々の中で
そして、プライベートでも子どもたちが成人して濵田さんのもとを離れたいま、彼女はパートナーと2人で幸せに暮らしている。
「私たち知り合いは多いんですけど、その人の人となりまでじっくり理解できている人は少ないんです。だから将来は、1日1組限定で知り合いだけが泊まって私たちと語り明かすことができるような宿を経営したいんです。私はそこで料理を提供しようと思っていますよ。後悔していることと言えば、子育てですね。あの子たちには申し訳ないことをしたと思っています。実は長男が9年前に自殺して亡くなっています。泣いてしまうので、まだ上手く口に出すことができないんです。振り返ると、20代、30代と数々の苦難があり、40代に入ってからは夢を叶えて、人並みの幸せを感じていることで、人の痛みがわかる人間に、人に対して優しくあれる人間に成長させてもらったと思っています」
人生とは起伏の連続だ。
良いときもあれば、悪いときもある。
その「山」を登るためには、自分ひとりで大変なときもあるだろう。
そんなときは迷わず助けを求めれば良い。
きっと途中で出会った多くの人が手差し伸べてくれることだろう。
そして「谷」にいるからこそ分かることや見える風景があり、「山」だからこそ分かることや見える風景がある。
その両方を経験している濵田さんのような女性は、もはやどんな困難にも立ち向かっていけるのだろう。
例え目の前に大きな「山」が現れても、そこを登りきれば、これまでにない絶景が広がっているのだから。
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