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山田 竜也「声のする方へ」

1.キャッチフレーズをつける男

「ネタバレさせる建築家」「子育て第一優先デザイナー」など、今年7月から、いろいろな人にキャッチフレーズを付ける活動を行っているのが、「未来アーティストたっち」こと「みらたっち」を自称する山田竜也さんだ。

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「2018年から夢を叶えるお茶処『竜茶庵(たっちゃあん)』という自分のオンラインサロンを運営してるんですが、サロン内で知り合った男性にキャッチフレーズを付けたところ、その人の活動の幅が一気に広がったんです。誰かの挑戦を後押ししたいなと思って、ZOOMで相談しながら、一緒にキャッチフレーズを考える活動を始めました。でも、キャッチフレレーズを付けることがゴールじゃなくて、目的は対話を通じて相手が本当にやりたかったことや自分の魅力に気づいてもらうことなんです。まずは、その導入部分としてキャッチフレーズを考えることをしてるんですよ。それに、言葉って名付けることで加速すると思ってますから」

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2.将来の夢

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現在40歳の山田さんは、1980年に埼玉県川島町で、3人きょうだいの次男として生まれた。

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小学生の頃からサッカーを始め、高校1年生までサッカー部に所属したあと、大学へ進んでもサークルに入り、社会人リーグなどでサッカーを続けた。

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「ずっとサッカーをやってきたんですけど、小学校の卒業アルバムには、なぜか『野球選手になりたい』って書いてたんです。その当時、人気のあったプロ野球選手になって、皆から注目されたり人気者になったりしたかったんでしょうね」

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子どものときから、1991年に放送されたテレビドラマ『デパート!夏物語』(TBS系列)が好きだった山田さんは、「将来働く姿を想像したときに、デパートで働くのも良いな」と考えるようになり、高校卒業後は、東京都国分寺市にある東京経済大学経営学部へ進学した。

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大学時代はお酒の味を覚え、友だちとよく飲む機会が多かったようだ。

埼玉の実家から片道2時間かけて通学していたが、深酒をしすぎたときには友だちの家に泊まっていたというから、当時から交友関係の広さが伺える。


3.転勤ばかりの人生

小売業へ興味を抱くようになり、卒業後は、インポートブランド品の販売店へ就職。

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最初は、愛知県名古屋市の店舗へ配属となり、初めてのひとり暮らしに戸惑う間もなく、わずか半年で愛知県一宮市の店舗へ転勤になった。

「そこから1年半で、広島の本店へ異動になったんです。会社の方針で、本店にいた店長が不在となり、実質的には僕が本店の責任者になったんです。まだ入社2年目くらいで右も左もわからない状態で、会社でも1番売上の大きい店舗を任されたので、何をやっても上手くいかず人生で初めての挫折を味わいました。次第にストレスで頭痛もしてきましたよ。半年経って、『このままじゃ、まずいから』と新しい店長がやって来て、代わりに『北海道へ行って下さい』と辞令を受けました。広島で結婚したばかりだったんですけどね」

北海道札幌市の店舗へ飛ばされてしまった山田さんだったが、「急な転勤で戸惑いもありましたが、北海道はとにかく楽しかったです。スノーボードを趣味でやってるんですけど、もう雪山はどこでもありましたし。初めてmixiを使って、オンライン上の友だちに出会ったのもこの頃でした。毎月カラオケオフ会を開いたり、スノボ関係のイベントを主催したりしていました」と当時を振り返る。

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札幌の店舗では3年半ほど勤めていたが、今度は広島県呉市の店舗へ異動を命じられた。

この頃に、別居状態だった元妻とは離婚。

呉市の店舗で20代にして店長を任されるようになった山田さんは、店の実積を上げるため、社内研修にも積極的に参加し、知識を貪欲に吸収するようになった。

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そこで、アンソニー・ロビンズの教えを日本で広げている有限会社グレイス代表取締役の是久昌信(これひさ・まさのぶ)さんの考えに共感し、師と仰ぐようになった。

次の転勤先は、福岡県大牟田市で、ここで広島で知り合った4つ上の女性と再婚。

2年働いたあと、今度は香川県高松市へ異動になる。

役職が上がり、30歳で店舗を統括する課長に昇格したが、勤め先で山田さんは大きな重圧を感じるようになった。

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「高松の店舗の店長をやりつつ、最年少で課長もやっていたんです。『自分が店長をしていた店が思ったように成果が出ていないのに、課長をやっているのは示しがつかない』といつも悩んでいました。途中から不眠症になり、いつの間にか店を抜け出してフラフラしたり、歩道橋に上がって希死念慮を抱いたりするようになりました」

心身ともに限界を感じ、精神科へ通院したところ、過度のストレスによる鬱状態との診断が下り、しばらく休職することになった。

2ヶ月間休職して心身の調子が回復したことから、復職した。

「いま思えば死ぬほど悩むことなんて、ひとつも無かったんですが、『そういう判断ができなくなるのが、心の病気なんだ』と、そのとき分かりました。人間の心は弱いし、ちょっとしたことで簡単に壊れてしまうことを知ったからこそ、いまでは悩んでいる人の心に寄り添えるようになったと思います」


4.ファンファーレは鳴らされた

2年半ほど勤めたところで、次は長崎へ異動になった。

そこでキングコング西野亮廣さんの著書革命のファンファーレを偶然手にし、衝撃を受けた。

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西野さんがつくり出す世界観やその発想力に惹かれ、彼が運営する国内最大のオンラインサロン西野亮廣エンタメ研究所へ入会し、積極的に活動へ参加するようになった。

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続いて異動となった佐賀県佐賀市では、プライベートで年間30本のイベントを主催することもあった。

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佐賀から転勤するときには、40人以上の人が各地から送別会に駆けつけてくれたそうだ。

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そして、今年2月からは広島県福山市の店舗に勤務している。

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もちろん、ここでも会社員として働く傍ら、さまざまなイベントを計画しているようだ。

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「長崎ではランタン祭りでゴミ拾いをしたり、路面電車をラッピングしたりと、多様な活動を仕掛けました。イベント経験はないんですけど、すぐに自分でやりたくなっちゃうんですよね。誰かが企画するのを待っているより、自分で始めたほうが早いし楽しいですから」

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当初開催したイベントでは、2人しか来客がないこともあったが、知名度が広がるにつれて、多くの人を巻き込むことができるようになっている。

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山田さんは、自分の顔と名前を覚えてもらうために、あるときから、段ボールで制作した大きな名札を制作し、交流会で首からぶら下げる様になった。

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そして、自分のアイコンを確立するために、1年半ほど前からは、白黒ボーダー柄の服ばかりをあえて着るようにしているという。

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「夏は白黒ボーダー柄の服がいっぱいあるんですけど、秋冬はほとんど売ってないんです。だから、コートもオーダーメイドでつくってもらいましたよ」と笑う。


5.旅先で声を拾い上げる

山田さんは、短くて半年、長くても3年ほどで転勤を繰り返してきた。

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興味深いのは、「転勤が多くて困る」と考えているのではなく「ちょっと長めの旅行」と肯定的に捉え、地域ごとの文化の違いや、そこでの出会いを楽しんでいるということだ。

だから、いつも彼の周りには、たくさんの人が集っている。

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それは、単に物事をポジティブに捉えることができる能力というよりも、一期一会の出会いを大切に捉え、全国各地で人の話にじっくりと耳を傾け続けてきた努力の賜物だろう。

公私を問わず、他者の話を真摯に傾聴し、その人の強みを引き出すために共に思考を巡らせる。

自分ではなく誰かのために尽くしてきたからこそ、誰もが彼にイベントや店舗を任せようと思うのだ。

そんな山田さんは、「私生活でさらにコーチングの技術を磨き、組織のコーチング担当として仕事でも活かせるようになりたい」と語る。

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「札幌で働いていたときに、初めてネットを通じて出会った同い年の友達が亡くなったんです。彼はブランド品店に勤めていたし、スノボーも得意で、僕とよく似たところがあったから、すぐに意気投合して仲良くなったんです。彼は人生を本当に楽しんでいましたから、知らせを聞いたときは驚きました。いま思えば、最初にネットを通じて出会った人が、彼で本当に良かったと思っています。人間いつ何が起こるか分かりません。時間は有限だし、生きたくてもこの世を去った彼の分まで後悔のない日々を過ごしていきたいと思っています」

今後も、彼を頼ってくる人は多いだろう。

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渡り鳥のようにどこかで声が聞こえれば、迷わず駆けつけていく。

まだその羽を休める時間はないようだ。



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