寺田 憲治「その球は回り続ける」
1.人気スポーツ、それは卓球
中学時代、僕は卓球部へ所属していた。
当時は「地味」「暗い」と揶揄されることのあった卓球だが、オリンピックでのメダル獲得などの影響で、近年の競技人口は右肩上がりに増加しており、いまや卓球は若い層を中心に人気のスポーツになっている。
兵庫県伊丹市に「T's卓球プラザ」を構える寺田憲治さんは、中学校から現在まで卓球を続けている。
寺田さんは、1966年に大阪市鶴見区で2人姉弟の長男として生まれた。
「小さい頃は、常に人の顔色を伺っているような子どもで、中学のときに、母親が卓球をやっていた影響で、何気なく卓球部へ入ったんです。1年で2日しか休みがないようなハードな部活でした。楽しいというより使命感で参加してましたね」
現在、卓球で使用されているラケットの主流は、シェークハンドだ。
しかし、寺田さんが中学生の頃は、ペンホルダーを使う選手ばかりだったため、顧問の先生から「足が早いからお前には、カットマンをやってもらう。シェイクハンドに変えろ」と命じられた。
ところが、寺田さんより長身の男性が部活に入部してくると、「やっぱり、こいつをカットマンにするから」と言われたそうだ。
以来、寺田さんはずっとシェイクハンドで卓球を続けている。
部活での猛練習の成果もあって、大阪2位という好成績を収めた寺田さんだったが、高校からは推薦の話が1つも来なかったようだ。
「俺ってそんなに魅力なかったんかなと思ってたら、公立高校の先生が『寺田はうちに来ることが決まってるから』って全部断ってたみたいです。やられたと思いました」と当時を振り返る。
2.卓球に打ち込んだ日々
高校でも卓球を続け、放課後には週3回ほど卓球を習いに行くなど、ますます卓球にのめり込んでいった。
1年生のときには、大会で優勝することもできた。
ただ、大学へ進学し勉強することは頭に無かったため、将来は家族でよく通っていた寿司屋で働かせてもらうつもりだったという。
転機が訪れたのは、高校3年生のときだった。
卓球の試合会場で先輩に進路の相談をしているときに、「うちの大学にけぇへんか」と声を掛けられた。
そこで、スポーツ推薦で大阪体育大学へ入学。
寺田さんは、大学でも卓球に明け暮れた。
関西学生選手権で出場したダブルスと西日本学生選手権のシングルスでは、どちらもベスト8に輝いた。
そして、大学時代は引っ越し業者やお好み焼き店、ファミレスなどのアルバイトにも熱中した。
卓球とアルバイト漬けの毎日で、大学の授業はあまり出席していなかったため、あるとき大学から警告書のような紙が届いた。
「危うく、あと1単位足りなくて留年するところでした。教授に頭を下げてレポートを書いて、なんとか卒業させて貰えました。あのときの恐怖は、いまでも夢に出てくるんですわ」
3. 先輩からの一言
寺田さんの父は、寺田さんいわく「何の仕事をしているのか分からない人だった」そうだ。
そうした父の背中を見て育ったことや飲食店でのバイト経験の影響もあってか、大学卒業後はサラリーマンではなく、何か別の仕事に就きたいと漠然と考えるようになっていた。
「高校の体育の教員免許を持ってたから、採用試験を受けてみたんですけど、600人受けて1人採用という超難関だったから、『無理やな』とすぐに諦めました。教員免許を取るための教育実習も母校の高校へ行ったんですが、初日に、ある生徒と取っ組み合いの喧嘩になりかけたんです。翌日からその生徒が登校しなくなって、他の生徒に理由を聞いたら『先生を殴って停学になった』って。危なかったですわ」
寺田さんが大学を卒業した年は、まさにバブル絶頂期。
内定学生が別の会社へ就職しないように、海外旅行などに接待して事前に足止めするという奇妙な習慣が根付いていた時代だ。
寺田さんはと言えば、友だちと一緒に一社だけ受けた幼児教育の会社から内定をもらうことができた。
「幼稚園へ体育を教えに行く会社ならええかな。これで俺の卓球人生も終わりなんやな」と考え、最後のつもりで、卓球の試合に出ていたときのことだった。
そこで大学の先輩に出会い、「その会社は俺が働いてたとこだから、そこだけは絶対辞めとけ。卓球専門店の方がましやぞ」と釘を刺された。
先輩の勧め通りに、寺田さんは知人が経営していた卓球専門店へ就職。
「営業仕事が中心で、個人経営の店舗やったから、社長と2人きりで大変でした。4年勤めたところで、日本生命保険女子卓球部の村上恭和監督から声を掛けてもらって、コーチとして働くようになったんです。最初の3年くらいはフルタイムで働いてたんですけど、だんだんしんどくなってきて、そのうちに週3回くらいはママさんチームに卓球を教えるようになりました。コーチをしていたときに、選手だったのが8つ下の妻で、彼女は現役時代に日本チャンピオンにもなってますから、僕より全然上手いんですよ。何より、好きなことをやり続けているのに文句も言わずサポートしてくれてる妻には、本当に感謝してます」
4.指導者として
32歳ごろからは、日本生命のコーチを辞め、ママさんチームや子どもたちへ出張指導をすることが仕事の中心になっていた。
そして行政から依頼を受け、ジュニアチームである伊丹卓球教室の監督を10年務めたこともある。
子どもたちの育成に重点を置くようになった寺田さんは、2008年にジュニア育成のための会員制の卓球チーム「T's ZERO+」を設立。
体育館を借りて指導を続けていたが、耐震工事のために体育館が10ヶ月休館することになったため、自身の卓球場「T's卓球プラザ」を2016年8月にオープンしたというわけだ。
「飲食業界でバイトをしてたこともあって、自分のハコを持つということは、それだけ売上をあげていかなきゃあかんから、本当はやりたくなかったんです。でも、子どもたちに練習を10ヶ月も休んでもらうわけにはいきませんから。最初は、僕とスタッフ2人で始めたので、2年間は、がむしゃらに働きました。お陰で、いままでなったことのない便秘や冷え性になっちゃいましたから」
「こんな経験は、20代でやっとくべきでしたわ。やっちゃったなぁ」と笑う寺田さんだが、ハコを持つということは、裏を返せば、やろうと思ったことは気兼ねなくできてしまうという強みもある。
そして、これまで指導してきた生徒たちが、現在はスタッフとして働いており、雇用を生み出すこともできた。
5.卓球はいつも傍に
お話の最後に、将来の夢を伺うと「世界征服ですわ」と教えてくれた。
まるで子どものような夢だ。
いまはまだ口から出任せだけど、「まずは周りの人を幸せにすることから始めて、その中身を考えていきたい」と語る。
手始めは、後進の育成のようだ。
振り返ってみると、寺田さんは、他人の助言を指針にこの場所まで辿り着いている。
おそらく一番驚いているのは、寺田さん自身なのだろう。
でも、よく考えるとそれだけ周りの人に恵まれていたということだし、それは全て卓球が導いてくれた道に他ならない。
もし、大学卒業後に内定を貰った企業で働いていれば、寺田さんは卓球を辞めていただろう。
ほかにも、何度も辞めるタイミングはあったはずだ。
しかし、まるでバックスピンのかかった球のように、卓球は寺田さんを追いかけ続けた。
寺田さんにとって卓球とは人生の羅針盤であり、卓球から寺田さんは多くのことを学んでいる。
「選手には『目標を立てて、ちゃんとやれ』と言ってるけれど、僕自身が目標を立てて、ちゃんとやってこなかった」と言うように、いま卓球の指導を通じて、改めて寺田さんは自身の人生を再構築しているようだ。
まだ、この球は回り続けている。
回転の大きくなった球は、次に寺田さんをどこへ導くのだろうか。
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