解説 「記憶のなかの肖像画」5/6

■着想元について

 主人公の「僕」は私が創作した架空の人物です。「僕」が受けたという肖像画を描くようにという勅命や、「僕」が描いたという肖像画、そして肖像画の製作記であるという本作も、完全なフィクションです。

 ですがいくつかの設定はある程度元ネタがある、つまり当時の記述をもとにしています。

 たとえば「僕」の師匠は画工、なかでも後宮の女性たちが皇帝へ送る肖像画を描く仕事をしていますが、この元ネタは四世紀前後に生きた「僕」より少しのち、四世紀前半に生きた東晋とうしん時代の葛洪かっこうという人物があらわしたとされる『西京雑記せいけいざっき』に由来します。『西京雑記せいけいざっき』は西にしみやこ、つまり長安ちょうあんに都があった前漢ぜんかんの時代の逸話いつわがあつめられた書物なのですが、このなかに王昭君おうしょうくんという人物の話が収録されています。

 それによると、当時後宮にはあまりに多く女性がいたので、皇帝は全員の顔を見て選ぶわけにはいかず、女性たちの肖像画を見て選んでいた。そのため後宮の女性たちは画工たちに賄賂わいろをつんで美人に描かせていたが、王昭君おうしょうくんだけは賄賂を送らなかった。

 そんなとき、いわゆる北方騎馬民族の匈奴きょうどが、和平の見返りとして妻をもとめてきた。皇帝は(賄賂を送らなかったがために)不美人に描かれていた王昭君の肖像画を見て、王昭君おうしょうくんを匈奴におくることにした。しかし実際に会ってみると、王昭君おうしょうくんはとんでもない美人である。皇帝は後悔したがいまさら約束を反故ほごにするわけにもいかず、王昭君おうしょうくん匈奴きょうどに嫁がせた。

 王昭君おうしょうくん匈奴きょうどに嫁いだあと、皇帝はどうしてこんなことが起こったのか調べさせた。その結果大規模な賄賂が明らかになり、都にいた画工のすべてを処刑し、画工たちの巨万の富を没収した。都には当時名の知れた画工がいたが――ここで画工の名前と得意分野(人物、動物、色使いなど)があげられています――全員処刑された。これきり、都の画工はずいぶん少なくなった、という話です。

 賄賂を送らなかったために(送らなかった理由は、一説では自分はこんなに美人なのだから送る必要はないと考えていったから、だといいます)、(美人でありながら)(「野蛮」な)匈奴に嫁ぐことになる王昭君の伝説は、この『西京雑記せいけいざっき』のあとも中国文化の重要なモチーフの一つとして、現代にいたるまで生き続けています。

 という話が近い時代にあるのだから「僕」の時代にも、後宮の女性たちが皇帝へ送る肖像画を描く仕事、というのはあったんじゃないかなと思い、「僕」と「僕」の師匠の設定に採用しました。

 もっとも『西京雑記せいけいざっき』の選著者は葛洪かっこう以外にも諸説あり、しかしいずれも後代の仮託と考えられているのですが、いずれにしても五世紀、南朝なんちょうりょうに生きた殷芸いんうんの時代にはあったことは確実なようなので、まあ……ほぼ同時代でいいじゃろ……古代では数世紀のズレは誤差の範囲なので……(独自研究)。

 ちなみに「画工」という言葉はあれど、「肖像画」という語は当時なかったようで、『西京雑記せいけいざっき』にはただ「圖(「図」の異体字)と記されています。

 また「僕」の肖像画は「皇太子殿下」、つまり西晋せいしん恵帝けいてい司馬衷しばちゅう)が家臣の顔を覚えるために使われた、という設定ですが、こちらにも元ネタがあります。

 なんでも歴史書である『晋書しんじょ』によれば、恵帝けいていの実子である司馬遹しばいつが宮中でほかの諸王子たちと遊んでいるところへ恵帝けいていが来て、諸王子の手を順繰りに取った。司馬遹しばいつの手も取った。そこへ恵帝けいていの父である武帝ぶてい司馬炎しばえん)が、「この子はお前の子だぞ」と言ったところ、恵帝けいていはやめた、という話があります(『晋書』「卷五十三 列傳第二十三 愍懷太子」より。「嘗與諸皇子共戲殿上,惠帝來朝,執諸皇子手,次至太子,帝曰:「是汝兒也。」惠帝乃止。」)。どうやら恵帝けいていは自分の息子の顔がわからなかったらしいのです。

 息子の顔がわからない(=覚えられない?)なら、家臣の顔も覚えられていないのではないか、当然それは困るから何がしかの対策を、恵帝けいていの父である武帝ぶていや側近たちはしたのではないか? という連想で「僕」の設定を考えました。

 つぎに主人公の「僕」は戦乱のために故郷の洛陽をはなれ建鄴へ移住した避難民という設定ですが、こちらも当時戦乱を避けて、多くの人々が移住したという歴史的事実にもとづくものです。

 ただこの話を書いたあとに關尾史郎「内乱と移動の世紀 : 4~5世紀中国における漢族の移動と中央アジア」という論文を読んだところ、洛陽から建鄴へというような長距離の移動ではなかったと述べられていて、まあそうだろうな……とこの話を書き終えて二年以上経った今では思います。北海道をよく知らない人がたてた北海道旅行の計画みたいな工程だもんな……。

 歴史小説を書いていると、自分の知識のアップデートによって過去の自分の作品にツッコみたくあることは、ままあります。

 さいごに、この話全体の着想は写真家・土門拳どもんけんの肖像写真集『風貌ふうぼう』から得ました。

風貌ふうぼう』は著名人の肖像写真とともに撮影記が添えられています。その撮影記に書かれたカメラマンとモデルという関係、撮影の間やその前後に起きたエピソード、そして何より土門拳の観察眼と文章が大変面白く、撮影記というシチュエーションを借りて(肖像写真ではなく肖像画ですが)この話を書いた次第です。

 話の作り方としては、ここに書いた順番と逆になります。

 つまり『風貌』を読んでこういう話が書きたいと思い立ち、話を成立させるために歴史資料にある程度もとづいて、こういう話があってもさほどおかしくない(と私が思える)設定を固めていった、という製作工程を踏みました。

■読書案内

●松枝茂夫ほか訳『記録文学集 中国古典文学大系第五六巻』(平凡社、一九六九年)

『西京雑記』の訳注・解説はこの本を参照しました。

 この本が構成する中国古典文学大系は、戦後の全集・叢書そうしょブームのなかで出版された中国文学叢書のひとつです。そのなかでも、研究のさいに参照する専門書としてではなく読み物として編まれたシリーズだと筆者は考えています。漢文や書き下し文を排し、注釈も最小限にし、(一九六〇年代の翻訳、それに中国文学の翻訳ということを加味して考えれば)かなりやわらかい、わかりやすい日本語で書かれています。

 特にシリーズ全六〇巻のなかの第五二巻『戯曲集 上』から始まる一連の本は、読み物として編集するという中国古典文学大系の特色が色濃く出ているのでは、と筆者は勝手に思っています。

 というのも、第五六巻である本書ではことさらそうなのですが、収録されている作品の年代がみごとにバラバラです。収録内容はさきほど簡単な解説を書いた、東晋ごろに編纂された『西京雑記さいきょうざっき』にはじまり、さいごはしん末、一九世紀の太平天国たいへいてんごくの乱に捕らえられたさいの獄中記、李圭りけい思痛記しつうき』で終わります。中国文学のなかの記録文学、というジャンルだけを縦糸として、およそ一六〇〇年の時と、有名どころでは蘇軾そしょくから、本書に収録された本人が記した書物以外の情報が残っていない王秀楚おうしゅうそ(『揚州十日記ようしゅうじゅうじつき』)、女性の陸莘行りくしんこう(『老父雲遊始末ろうふうんゆうしまつ』)まで、有名無名の著者をよりあわせて、本書は編まれています。筆者の浅学、寡聞のせいもありますが、ちょっと聞かない構成です。これだけ多様な作品、七人もの翻訳者(実に豪華絢爛な顔ぶれですし、解説で佐藤春夫の名前も出てきてちょっと驚きました)、おもしろいことはもちろん、なんて贅沢な本なんだ……資本の香りがする……と筆者は戦慄します。

 中国古典文学大系シリーズ、おすすめです。

●關尾史郎「内乱と移動の世紀 : 4~5世紀中国における漢族の移動と中央アジア」『専修大学社会知性開発研究センター古代東ユーラシア研究センター年報』巻5、二〇一九)

「僕」も遭遇した戦乱(歴史用語では八王はちおうの乱、永嘉えいかの乱といいます)ではたくさんの流民が発生したことは、史書に書いてあります。では彼らはどこからどこへ向かったのか。その謎に主に考古学から迫るのがこの論文です。副題にあるとおり、北から南へ、華北かほく地域から長江ちょうこう流域への移動ではなく、中央アジア地域もふくむ西北地域(前涼ぜんりょうの支配域など)を主眼としているのが特色です。

 残念ながら今日でも見られるように、戦乱が発生すると人々は戦乱そのものやあるいは支持できない支配者の支配から逃れるため、避難を開始します。避難民も避難民を受け入れた土地の権力者も、最初は避難を一時的なものと考えます。しかし予測に反して避難が長期化したときさまざまな問題が発生することは、やはり今日と何も変わりません。

 当時の史書も考古学資料も積極的に語ってくれる問題ではありませんが、地名や発掘物に残されたわずかな痕跡をたどるこの論文は、しみじみ歴史学っておもしろいなあという気持ちを思い出させてくれます。

 それと第一章はこの時代の概略として非常にわかりやすくまとめられています。おすすめです。

●土門拳『土門拳の風貌』(クレヴィス、二〇二二年)

 写真集『風貌』の作品と、雑誌などのために撮られた人物写真をあわせて収録した写真集です。『風貌』からは八三点の作品中、四七点が収録されています。

 B5変形版の見開きの左ページにはモデルの直筆署名、土門拳の撮影記、モデルの略歴、撮影情報が、右のページには肖像写真が掲載され、「写真の鬼」土門拳の観察眼の冴えを写真・文章の両面から味わえる写真集です。

 

●土門拳『鬼の眼 土門拳の仕事』(光村推古書院、二〇一六年)

 土門拳の代表作を網羅した写真集です。

 戦前から戦後の一五年間に撮影された「尊敬する人、好きな人、親しい人たち」の肖像写真集『風貌』。

 戦争の激化するなか大阪の文楽座に通い詰めて撮影され、一九四〇年に空襲で焼失する以前の文学座の姿を今に伝える『文楽』。

 一九五七年の広島を撮影し、原爆投下一二年を経てなお「生きていた」惨禍を伝え、国内外を震撼させた『ヒロシマ』。

「もはや戦後ではない」という文言が経済白書に載ってから三年後の一九五九年、燃料が石炭から石油・天然ガスへ急速に切り替わった第三次エネルギー革命のなかで、閉山があいつぎ厳しい生活へ追い込まれた炭鉱の町・筑豊を取材した『筑豊の子どもたち』。

 四〇年にわたり撮影され第五集まで刊行された、畢生の作品である『古寺巡礼』。

 といった主な写真集からはもちろん、日本における報道写真の草分け的存在である日本工房に入社して一〇日目に撮られた七五三の写真から始まり、写真家・土門拳の作品が時系列順に収録されています。

 リアリズムを徹底し真実を見抜き捕らえる「鬼の眼」は子どもたちに向けられるとき、底にある優しさが前面に出てきます。写真家・土門拳の魅力に触れられる写真集です。

 

●土門拳『風貌・私の美学 土門拳エッセイ選 酒井忠康編』(講談社、二〇〇八年)

 戦後の日本写真界を牽引し、後進の育成も含め大きな足跡を残した写真家・土門拳は、当時から名文家としても知られ、多くのエッセイを書きました。

 そのエッセイの選集が講談社文芸文庫から出版されています。

 写真の奥から貫き出る土門拳の鋭い眼光と同じが光に貫かれたエッセイを読むことができます。

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