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京フェス2024本会企画「「『百年の孤独』を代わりに読む」という方法」レポート

はじめに──京フェスってなに?

 noteをご覧の皆さん、お久しぶりです。今年も紅葉色づくこの季節までnoteを冷凍保存してしまった京都大学SF・幻想文学研究会のeXTaCyです。決して忘れているわけではないんだけど、不思議と手に取ろうという気が起きない。noteって、一回開けちゃったまま放置してる手続き系の封筒みたいですよね(手続き系?)
 さて、気を取り直してこの記事の概要を少しだけ。レポートを読まれる方はスキップで大丈夫です。
 京フェス(京都SFフェスティバル)とは、KUSFAが一年に一回主催している、SFファンのためのコンベンションイベントです。コンベンションイベントの意味が初見で掴める人はいないと思いますので、ファンと作家・編集者など、作り手/遊び手の垣根なくSFを盛り上げている人みんなが集まってするお祭りだと思ってもらえれば幸いです。
 もともとこの京フェス、ずっと対面&合宿を特徴としてやってきましたがコロナとともに2020年から急遽オンラインに移行。本年10月、たくさんの方にご協力いただき、久しぶりに完全対面&合宿形式に戻ることができました。
 この記事では、そんな京フェス2024でお昼に行われた本会2コマ目の企画、「「『百年の孤独』を代わりに読む」という方法」の様子をレポートしています。否定命題くらいカギカッコが連なった企画はいったいどんなものとなったのか。ぜひ、ご覧ください。

文庫化は遅れてくる:『百年の孤独』ガイドブック

 読者の皆さんにまず質問です。
 『百年の孤独』、読みましたか?


 



 『百年の孤独』、読みましたか?(二回目)

 こちらは京フェス本会会場、キャンパスプラザ京都2Fホール。この質問をしたが最後、会場内にいる人の半数弱が「読了済み」と挙手をするという、世間広しといえどなかなか稀有な空間で本年の二コマ目企画は行われました。その名は「「『百年の孤独』を代わりに読む」という方法」。カギカッコひとつ多くない?と思った方、ごもっともですが筆者の誤植ではありません。本年文庫化されるやいなや、版を重ねて書店にも在庫なし、と相変わらずのモンスターぶりを発揮した『百年の孤独』ですが、 実は時を同じくして重版決定となったもうひとつの「百年の孤独」があるんです。
 それが友田とんさんによる「『百年の孤独』を代わりに読む」。しばしば難読書にも数えられる『百年の孤独』について、じゃあ代わりに読んでしまえ、という大胆な一冊です。

 本講演では、著者の友田さんをお呼びし、「代わりに読む」をどのように進めていったのかを詳らかにしていただきました。というのも、「代わりに読む」と銘打って、はい代わりに読みました、と言うだけなら簡単ですが、実はそんな大雑把な話ではないからです。  そもそも、「代わりに読む」とはなんなのか。根っからのものぐさ人間である筆者としては、もし○○を代わりに読んでくれる人がいたなら……、と思ったことも二度や三度ではありません。けれど、それはあくまで「もし」の話であって、「代わりに読んでしまえ!」といって読んだことになるのなら、むしろギャグ的な世界となるでしょう。なぜなら、読書というのは食事や睡眠と同じように、一見代わりようないものに思えるからです。  話が見えにくいですね。『百年の孤独』か? 例えば、一時期問題にもなっていたいわゆる「ファスト映画まとめ」について考えてみましょう。これは、実際の本編の映像などを断片的に使用し、オチやどんでん返しといった「ネタバレ」も含めて映画を紹介してしまうタイプの動画を指していますが、このような動画を視聴することで、映画本編・・・・を観たことになるでしょうか? もし観たことになるのだとしたら、これはその動画制作者にある意味「代わりに観」てもらったことになります。ただ実際にはネタバレ動画を見たところで、多くの人はその映画の筋については知ることができても、「代わりに鑑賞してもらった」という気にはならないでしょう(というか筆者がそうです。ものぐさなくせにファストを見るのは負けた気がしますというか普通に権利侵害に加担したくないです)。  つまり、「代わりに読む」という言葉は始めから無理難題として持ち上がるのです。そして講演では、「『百年の孤独』を代わりに読む」という本が、「代わりに読む」という一見不可能な言葉に導かれ、それを考えはじめたひとりの著作家の試行錯誤だったことが明らかになります。  ここまで読んで、そもそも不可能ならやらなければいいのでは、と思う方もいらっしゃるかもしれません。ごもっともです。ごもっともですが、著者の友田さんはそうは考えません。端から無理そうなこと、もしくは出オチめいた(冗談みたいな)発想、それらも言葉の上では存在できるのが言葉のいいところ。そしてそのような言葉にはどこか「可笑しさ」、すなわちユーモアが生まれます。  「代わりに読む」という言葉が、「代わりに読む」ためにはどうすればいいか、という問いを生む。そして、その問いに引っ張られるように、ドリフのコントや昔懐かしいトレンディドラマなど、『百年の孤独』を読み進めながら著者の頭のなかに去来する無数の関係ないテクストが紛れ込んできます。そして友田さんは、このようなある意味「ツッコミ不在」のまま進行する試行錯誤劇が、まさに『百年の孤独』的であることに気づいたと言います。

『百年の孤独』を真面目に読まない

 講演中、個人的に印象に残った言葉があります。曰く、『百年の孤独』は冗談話として書かれている、と。だから、「有り難がって読むと本当には読めない」ということを出発点にしたと言います。
 『百年の孤独』の作者・ガルシア=マルケスはノーベル文学賞も受賞した偉大な文学者。とはいえ、それゆえに正座して大真面目に読んでは、楽しめるものも楽しめません。だから、「有り難がらない」。
 ちなみに、未読の方に『百年の孤独』のむちゃくちゃさの一端をお伝えするなら、

・登場人物が六世代分現れる(めっちゃ多い)
・幽霊のために新しい街をつくる(マコンドの開拓)
・アウレリャーノという名前のキャラクターが20人くらいいる(本当にややこしい)
・130歳のおばあちゃんがずっとメインを張る(長生きすぎる)
・アマゾンを俎上してきたデカい帆船が突然街に現れる(デカすぎる)

『百年の孤独』より

 という感じのエピソードがどんどん出てきます。確かに、笑わせに来てるかも。『百年の孤独』のうねるような世界や、めちゃくちゃさに魅せられた一読者としては、やっぱりまずそれを伝えたい。なるほど、脱線すればよかったんだな、と腑に落ちた思いがしました。
 最後に友田さんは問いを立てることの大事さを述べるとともに、「代わりに読む」を考えることを通じて読書とはなにか、という問いに至ったと語ります。そのとき挙げられるのが「私が小説を読んでいるのではなく、小説が私を読んでいる」という警句。これは単なる美辞麗句である以上に、どうやって「代わりに読む」のかを考えつつづけてきた友田さんの確かな実感だと言います。小説を読んでいる「私」と、小説の内容は当然ながら別物。それにも関わらず共感したり心を動かされたりするとき、私たちはこれまでの思い出や考えていたこと、いわば「私」の一部が小説に位置付けられていくのではないか。それは没入している、というよりは脱線的なのではないでしょうか。
 SFから離れ、ラテン幻想世界からも離れ、ついには読書一般の話に広がった本企画。本編と同じく脱線に脱線を重ねた講演中には、お昼休憩後の穏やかな陽気と相まって振り落とされてしまった参加者もちらほらいたような……?
 でも、SF好きの皆さん、脱線もお好きでしょう?

 実際に「代わりに読む」ことができたのかどうか、気になる方はぜひ著・友田とん「『百年の孤独』を代わりに読む」のなかでご確認ください!(書き手:eXTaCy) 

(関連リンク)WB120にはより詳細な講演者インタビューも掲載されています。Boothはこちらから↓

友田さんによるひとり出版社「代わりに読む人」のホームページ↓


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