ドラムはじめて物語その⑨〜新バンド始動〜
~前回までのあらすじ~
「丸三年の活動を経て、ついに解散してしまった悪影響。さてバンドがなくなったさおりとひろゆきの運命はいかに?」
悪影響はたくさんのファンに見守られ無事にラストライブを終えた。
悪影響は終わったけど、ひろゆきのバンド人生はまだ終わっていない。
「新しいバンド、また一緒にやってくれる?」と誘われたさおり、もちろん即オッケー!!
そしてこの頃、ひろゆきはバンドメンバーから「彼氏」に昇格していた。
どうやら皆様が知りたいのはバンドの話より我々の恋バナのようですが、ラブラブすぎてとても文章にはまとめられないので割愛。
気になる方はライブに来て頂ければ質問にはお答えいたします。笑
まぁひとつだけ言っておくと、一見めんどくさくて変わり者のひろゆきですが実は優しくて面白くて、さおりにとっては最高のかわい子ちゃんなのです❤️
そんな彼の作る楽曲や、歌声が大好きだったので、新バンド結成、もちろんどこまでも着いて行くぜ!!
さてベーシストをどうするか?
一刻も早く新バンドを始動させたかった私達は、とりあえずサポートでもいいからベースを弾いてくれる人を探し、まずバンドを形にしてからゆっくりベーシストを探そうということになった。
そしてそのサポートベースに、悪影響時代仲良くしてくれたバンドの「Mくん」が候補に上がった。彼は快くOKしてくれた。
バンド名は「ansony」とひろゆきが命名。
アンソニーとは、キャンディキャンディに出てくるあのアンソニーから取ったもので
そのアンソニーのラストの切ない死に方がひろゆきのお気に入りだとかなんとか。
こうして結成された新バンド「ansony」は「愛と切なさと激しさ」がテーマだった。
悪影響解散後、すぐにansonyのデモテープ作りを開始。
ansonyの楽曲は悪影響より切なさと激しさを全面に出したが、やはり私達のツボである「速いビートにキャッチーなメロディー」だけは健在。
そしてMくんを入れて三人でのスタジオリハを開始。
これから一体ansonyでどんなことが起こるのだろう。
さおりは期待に胸を弾ませていた。
しかし期待とはうらはらに決してラクではない怒涛の日々が始まる事となる。
悪影響時代…お客さんがいるライブは楽しかったし、なんだかんだ言ってひろゆきもステージでは笑っていた。
でもひろゆきはちゃらちゃらしたイメージがよっぽどイヤだったのだろう。
「ansonyのライブでは笑わないで唄う」と言い出した。
チャラさを消すために、そしてより激しさを出すための表現方法として
「笑わないで、しかめっつらで、激しさを出して愛を唄う」
という表現方法を彼は思いついたようだ。
え・・・・・・。
ちょっと何言ってるか分かりませんw
さおりは正直反対だった。
なぜならば彼の笑った顔が好きだったしファンのみんなもきっとそうだろう。
しかめっつらでやるライブを見て、お客さんは果たして楽しめるのだろうか?
・・・とは思っていたものの、否定はしなかった。
まぁまだ何も試していないし、本人のやりたいようにやらせてあげたいし、まぁやってみなきゃわからないし…
というのも理由だったが、正直なところあの頃の彼は、一度言い出したらまわりの意見など聞かない男だったからである。
まぁやってみるがよい!
ひろゆきは新バンドansonyでやっと自分がやりたいことができる、と張り切っていた。
そしてansony結成から約二ヶ月後…とうとう初ライブ!!!
悪影響時代からお世話になっていた下北沢の屋根裏にお願いして出演させてもらった。
悪影響時代のファンも何人かは来てくれたが集客は悲しいぐらいゼロに近かった。
ある程度、覚悟をしてたとはいえ
「お客さんがいないライブ」はなかなかキツイものがあった。
ひろゆきは終始しかめっつらでライブをこなし、曲と曲の間は緊迫した空気が流れ、会場中がシーンとしていた。
なんせ我々、お客さんのいないライブというものをあまりやったことがない。
どこに何をどう向けてよいのか分からなかった。
あれ…こんなはずじゃ…
いやっ、まだまだはじまったばかり。
初ライブだし、こんなもんでしょ!
と、そんなに凹んではいなかったがライブハウス側の評価は散々だった。
「何がやりたいのか全然わからない。悪影響の方がよっぽど良かった」と言われてしまった。
今はなかなかいないが、あの頃のライブハウスはバンドに対してズケズケと意見を言ってくれる人が多かった。
しかし、今となれば「ごもっとも」と思えるそのアドバイスも、若かりしあの頃は聞く耳さえも持たず、
「我々の良さをわかってもらえない」と、屋根裏を飛び出しほかのハコを探すことにしたのだ。
さてさてどうしよう。
次に選んだのは渋谷ラママだった。
ラママを選んだ理由はさおりとひろゆきを結び付けてくれた共通のお気に入りアーティスト「ジュンスカ」が立っていたステージだったからだ。
あの頃はハコに出演するにはまずオーデションライブというものを突破しなければならなかった。
ラママのオーディションにはなにがなんでも受かりたかった。
どうしてもジュンスカと同じステージに立ちたいと言う思いと、ラママに落ちたら次はない!と言う思いと…。
昼間に行われた30分のオーディションライブ。いまでもよく覚えているがとにかく全力だった。
その甲斐あってライブ前は無愛想だったブッキングマネージャーが
「伝わったよ!!」と興奮気味に手を差し出してきた。
めでたくラママ合格。
やったー!!
その時のラママのブッキングマネージャーこそが、
のちの「9mm parabellum bullet」の発掘者でもあり残響レコードの創設者でもあるのだ。
彼の観察力はすごかった。
いつも出演バンドのライブは最初から最後まで全て見ていた。
ライブ後は
「何曲目のサビの後から、客間の雰囲気にのまれちゃったね」などと
到底本人にしかわからないような心境をスバリ言い当ててくるから恐ろしい。
このブキマネはごまかせないな。
それからいうもの、ラママでのライブはこのブキマネを納得させたいがために必死で頑張っていたような気がする。
とにかくこのブキマネがansonyの今後に大きな影響を与えたのは間違いない。
それから、きっかけは覚えていないが新宿JAMにも出演するようになった。
そして、ansony結成から約一年後…サポートベースのMくんが脱退。
Mくんのバンドが忙しくなり、掛け持ちは難しくなってきたとのこと。
一年間、ほんとうにありがとう。
いつも閑散としたansonyのライブによく一年も付き合ってくれました。
あの時の感謝は忘れません。
さて・・・・・・
ついにベーシストがいなくなってしまった!!!
ansony、一体どうなる!?
つづく。