夜明けのルナ (第1話) 

あらすじ
少子化が極端に進んだ上に男性の生殖能力に問題が起こった日本。政府は人類に遺伝子が一番近いマントヒヒの牡を独身女性に配偶者として配る計画を秘密裏に進め、三十五歳のルイに白羽の矢が立った。友人のリカはエリート公務員と結婚。政府側に付く。アリサはマントヒヒの夫を拒否、法に依り下級清掃員の身分に落とされるが、反少子化対策法のデモを計画、レジスタンス運動に入る。ルイはヒヒの子を出産。見かけは美しい女の子だった。名前はルナ。ある朝、ルナがヒヒの咆哮を発した、ルイは我が子を絞め殺そうとする。それを救ったのはリカとアリサだった。

目次
1.夫はマントヒヒ
2・選んだ道
出産
4・夜明け

(1)夫はマントヒヒ


私には夫がいる。法的夫だ。
それはマントヒヒ……。
ホラー映画ではない。本当のことだ。
クニによって配られた配偶者。生殖のための用具として配られた獣だ。

子どものころ、サルのぬいぐるみをもっていた。多分,サルだったと思う。抱っこしたりおんぶしたり片時も離さなかった。
名前はルナ。私の分身だった。
私、お母さんになったら、子供にルナって名をつける。そんなことを言ったような気がする。ルナをいつ失くしたのか飽きて捨てたのか覚えていない。ピンク色の綺麗な顔のサルだった。

私の夫は醜い顔のマントヒヒだ。死ねばいいのに。いつも私はそれだけを願っている。私は35歳まで独身だった。生涯、独身でいいと思っていた。それなのに……。
「ルイ。国に急かされないうちに良い人を見つけて結婚したら」二十五歳を過ぎると母に時折言われた。
「結婚?……それほど好きなヒトいない」
「そう」と母は流す。
「それにこんな世の中、子供を産んでも子供幸せになれると思う?」
「それは……」とあいまいな母。母との会話はそんな感じだった。父は食べることとハト以外には関心のない人だった。
「なんで結婚したの」母に聞くと
「一生独身でいる自信がなかったから」とからりと笑った。

「結婚て何だろうね」友人のアリサに問う。
「多分、博打のようなものじゃない?当たり外れが半端じゃないから怖いよ」とアリサは肩をすくめる。
「今まで好きな男性に一人も出会わなかったわけではないけど」
私はコーヒーを一口、
「生涯を共にしたいとは思わなかった。夫のご飯を作ってパンツを洗って子を産んで……。そんな人生、なんかつまらない」
「私もそう思っている」
とアリサは笑いながら、
「私、夫は要らない」

しかし政府はそんな生き方を許してはくれない。
『結婚して子をなすことは国民の崇高なる義務である』
憲法第一条の文言だ。
十年前、憲法第一条となった。世界各地で戦争が勃発し、世界大戦が起こるかも知れないと不安が湧き上がっていたころ、この条項案が突如現れた。「ドサクサ紛れだ」「結婚とか子供を産むことに権力が関与するなどあってはならない」野党は反対した。
「若い兵士がいないと国が侵略される」「若い人は結婚して子を作るべきです。そのために憲法改正をするべきです」「それと憲法とは別だ」「国が滅亡していいのか。野党は無責任だ」
しょせん、多勢に無勢。反対派はあっけなく潰された。
「『結婚義務化反対』のデモに参加しただけで警官に尾行され、首相の街頭演説にヤジを飛ばしただけで警察に連行される。そんな状況はおかしい」
と声をあげたコメンテイタ―はテレビから消えた。
「ニホンも侵略されるかも知れない。とりあえず、強い政府であって欲しいですね。今、クニを野党に任せられるでしょうか」
そんな意見ばかりが報じられる毎日。
「今は、国民が一致団結しなければなりません。クニを守るため人口を増やして国力をつけないといけません。外国人を大量に移民として受け入れたくないのなら自力で労働人口を増やさなければならないのです」。
上品なネクタイ、優しげな笑み、すらりとした長身。そんな首相に多くの人々は好感を持ち、批判的な意見はインターネットで一斉にバッシングされた。
「なんか変じゃない?」
「政府に批判的な意見は叩かれて消される」
「なんか怖いね」
アリサやミカと声をひそめて話すだけで反対する勇気も方法も分からなかった。そしてこの条文はスルッと憲法第一条となったのだ。

「結婚が義務だなんて」「そうするしかないのだろう」「医療費もただになって暮らしは楽になったけど」隣の部屋から両親の声が聞える。
「生活が楽なことがいちばんだ」「反対派を探るために秘密警察が置かれたって噂よ」「外国のことだろう」
両親の会話はかみ合わないまま消えていった。
それから五年。
私が三十歳のとき、両親は相次いでS型コロナに罹って他界した。
「結婚したくなければしなくていい。自由に生きなさい」
母の最期の言葉だった。
「持病もなく健康だったのに。なんで……」
アリサに電話しながら思わず涙ぐむ。
「六十歳を過ぎた人には、クニが意図的にウィルスを何らかの方法で付着させて病死を促進しているって」
スマホの向こうのアリサの声がだんだん掠れてゆく。誰もいない部屋なのに私は辺りを見回した。この見張られ感、どこかで誰かに見張られているこの感覚は何だろう。
「何のために?」と私。
「高齢者を減らすためよ」とアリサ。
「言葉に用心したほうがいいよ」 私は口に手を当てて辺りを見回す。
「言葉に用心していたら何も言えない」
「いくらなんでも高齢者を意図的に減らすなんてそこまでは」
「出産促進政策とセットなのよ。生殖能力のない高齢者から消えてもらうというわけ」
アリサの言葉に私は声を吞む。胸が動悸を打った。
「政府は、若い人口を増やして高齢者を意図的に減らそうとしているんだよ」と断言するアリサ。
たしかに、ここ十年ぐらい、S型コロナウィルスの蔓延で高年層がじわじわ命を落としている。でも、生殖年齢を過ぎた人を意図的に病死させるなどそこまでするだろうか。
「私は長生きしたい。せっかくこの世に生れたのだから」
私は話題を変え、
「子供のころ見た雪、もう一度見てみたいわ」
アリサが明るい声で、
「気温を下げる研究が世界中で進展しているから、雪を見られる日がもうすぐ来ると報道されているよ」

ああ、もう一度雪を見てみたいなあ……。
窓を開ける。
庭からバナナの匂いが漂ってきた。田んぼが激減、米が足りなくなったため、政府は各家で自給自足に足りるだけのバナナを栽培することを義務付けていた。
手をかけなくてもバナナは盛大に育った。ほぼ野生状態だ。ニホンは五十年ぐらい前のハワイのようになっていると新聞で報じられているが、私は五十年前を知らないから、想像できない。
五十年前のニホン、見てみたいような見たくないような……。
甘い外気を吸って一息入れ、パソコンに向かう。庭付き一戸建ての家を相続し、ウェブサイトのライターをしている。
独身税が収入の二割。凄い高額。ほとんど罰金だ。だが、お金のあまりかからない独り身だ。何とか暮らしてゆける。
とはいえ……。
「このまま独身でいたら、これからクニからどんなペナルティーが新たに科されるか、それが不安ね」
のんびり屋さんのリカもさすがにちょっと不安そうだ。
政府は、国営の結婚斡旋所をあちこちに作り、結婚がまとまったカップルには多額のお祝い金を出している。
「ホント。独身者と子供なしは肩身が狭いわね」
私は肩をすくめた。こうやって本音で語れる友達がいるって幸せ。

結婚する男女の数は減り続けた。このままではニホンは消滅する、と危機感をもったのだろう。政府は様々な法律を通した。
『未婚の母と婚外子に対するあらゆる差別を撤廃する』
それでも効果がないと見ると、
『条件付きで夫婦別姓を許可する』
そして二年前。
『三十五歳を過ぎた独身者にはクニが選んだ配偶者を配る。拒否する者には一定期間、特別公務員になることを義務づける』という法令が成立したのだ。よく考えると、いや、よく考えなくてもこわーい法律。だが、なぜかあっけなく成立してしまった。
「特別公務員とは何ですか」
記者の質問を首相は微笑みながら
「特別なお仕事をしてもらう公務員です」
記者はそれ以上突っ込まない。

「首相の武器は年なりにイケメンだってこと」アリサは唇を歪めた。
「顔って武器になる?」私は真剣に考え込む。ミカは笑った。
「いちばん強力な武器よ。人間のハートを支配するためには」
とアリサが金色に染めた髪を指でかきあげながら体を乗り出す。
行きつけの喫茶店でこんな話をする。

特別公務員の噂はどこからともなく漏れて来た。
「タワービルの窓拭きだって」「浄化槽の詰まったのを掻きだしたり、期限切れ備蓄食品破棄」「危険らしいよ」「殺処分した動物の焼却もね」「巨大クレーンに大型鉄骨を乗せるのって、最期は大勢の人間がセーノで力合わせてやるんだって」「ウソ―」「ほんとよ。その作業させられるのよ。ガリガリに痩せたオトコでも……」
私たちはそれぞれが入手した情報を語り合う。
「なんか怖くてコーヒーも美味しくないね」
それが結論だ。

社会がどんなにハイテク化、デジタル化しても、最終的には人間のしなければならない分野がある。ロボットやAIでは対処できない細かくて危険で汚い仕事。人間の手以上に精密な機械はないのだ。
「十年ほど前までは外国の方にやっていただいていたのですが、外国から人がニホンに来なくなりまして」
「これをAIがやるように設計しようとしたのですが、AIが自分の意思で拒否したのです。結局、人間がやるしかありません。独身主義の方にはその分野で御活躍していただきたいと思う所存でございます」
首相の微笑みは絶えない。私は首相演説もニュースも信じていない。あまりにバカバカしいから。
でもたまにテレビも見ないと社会情勢がわからなくなる。それも不安だ。リモコンのスイッチを入れた。
ブルーのワンピースの女性アナウンサーがにこやかに読みあげていた。

『新型コロナで人口が減って消滅した国があります。アフリカの小さな国ですが人ごとではありません。ニホンを存続させるためには、若い方が子供を産まねばならないのです。そのためにクニは結婚斡旋をより強力に進めるべく独身者に配偶者を配ることにいたしました。AIが二人の相性などを数値化して、ベストな組合わせになるよう最大の努力をいたしますが、場合によっては異次元の方法にトライするかも知れないとのことです』

アナウンサーは口角を上げて微笑んだ。だが目は笑っていない。
このアナウンサー、三十二歳で独身よ、たしか……。
私はスイッチを切った。
翌朝の新聞には大きく『マントヒヒ計画』のことが報じられていた。新聞社は二社しかない。いずれの社説も、誇張した冗談、単なる例え話、という結論に落ち着いていた。アリサに電話した。
「マントヒヒ計画って、何?冗談よね」
「そのうち、独身者は全員動物園行き、なんて法律も出来るかも」
「まさか」
「ルイはのんきね。まさかがまさかではなくなるのよ。ね、独身者同士、またお喋りしない?」
アリサとミカと私はいつもの喫茶店に集まる。
「久しぶり、ここのチョコレートケーキ」「やっぱり美味しいね」「ところでクニが配偶者を配るなんてさ」「どうせならイケメンを配ってくれたらいいけど」「ミカは楽天的ね。マントヒヒを配られたらどうするの」
ミカは色白の丸い顔を歪め「断るよ、もちろん」
「断る勇気ある?」問い詰めるアリサは厳しい表情だ。私はアリサの脇腹をつついた。
「ミカは自分でいいヒト見つけるよ。選り好みし過ぎてまだ独身というだけ」アリサはちょっと笑ってケーキに食らいついた。私もケーキを口に運びながら、
「政府はやたらマントヒヒの宣伝をしてるけど、強くて優秀なオスを独身オンナに配るなんて、うわさ、下手な小説みたい」
アリサはちょっと掠れたセクシーな声で。
「政府はなぜ、独身男性にメスのマントヒヒを配るとは言わないのだろ?」「説明したくないヤバいことがあるんじゃない?」
わたしは言ってからしまったと思った。ピント外れのことを言っちゃったかな。だがアリサは真剣な眼差しで、
「そのとおり」「え?」「ニホンの男性は精子が弱っていて何をあてがってもダメらしい。それをクニは説明したくない。ヤバ過ぎて」
辺りがゼリーのように固まった。私は話題を変える。
「アリサ、結婚したい相手、いる?」
アリサは首を横に振った。金色の長い髪がゆらっと揺れる。
「ミカは?」 
ミカも笑って首を横に振る。
「私たち三人ともしばらくは独身みたいね」
言いながら私は 内心ほっとしていた。ミカはお茶目な眼差しで、
「クニは案外いいオトコを配ってくれるかもよ」
アリサは天井を見上げて笑った。
「ミカ、幸せなノーテンキさん」 
私は黙ってブルーのコーヒーカップに目を落とし、カップを指で軽く弾く。外は微かな雨に煙っていた。
それから三年。

ミカの結婚相手が決まった。「三十四歳、滑りこみセーフよ」 
ミカは照れくさそうな笑みを浮かべた。ふっくらした頬が少し赤い。
「よかったじゃない。私たちに内緒で付き合ってたの?」
「親の知り合いから紹介されたの。クニから相手を配られるよりは安心かなと思ってOKした。ちょっと年の差、大きいけど」
「何の仕事してる人?」
「公務員」
「決め手、それだけ?」
「顔がね、私好みだったの」ミカは恥ずかしそうに頬を染めた。
後で知ったが、友人の話ではミカのお相手は長官候補のトップ官僚とか。ミカ、幸せになって、良い子を産んでね。

法律の力は強大だ。独身の友人たちはバタバタと将棋倒しのように結婚した。三十五歳、私とアリサは独身。貴重な仲間。まさに絶滅危惧種。いつもの喫茶店でアリサと会った。
私はため息交じりに、「とうとう二人になったね」
アリサは笑って「特別公務員になるのも、クニに配偶者を配給されるのも嫌なら、誰でもいいから相手を見つけて結婚するしかないね」
「怖いよ、この状況」
「あんな法律が通るなんて、ニホン死ね!」
「それ、六十年以上前に流行った言葉じゃない?」
「誰が言ったんだろう」
「さあね」
それからなんとなく黙り込む。コーヒーカップに目を落とす。いつも最後はこうだ。コーヒーカップを見つめるしかない。アリサが沈黙を破った。
「革命でも起こさない?」
ん?とアリサの顔を見る。アリサは真剣な眼差しだ。彼女はいつも真剣だ。素敵な人、でもちょっと疲れる。
「革命を起こすには失う物が多過ぎる、無理かなやっぱり」
たしかに……。私は心の中のつぶやきを口には出さなかった。
生活は私なりに安定している。失業の心配もない。というかなさそうだ。だから多少の異常な法律には目をそむける。私たちを飢死させない政権なら、強権だろうとへんてこりんだろうと、ま、いいか。それが今の私。アリサは長い髪を指でかきあげ、
「大昔、江戸時代に命かけた百姓一揆がおこったのは、貧困のドン底で失う物が何もなかったからよ」
風が強くなったのか、窓の外ではバナナの葉がワサワサせわしく揺れている。私は言葉を選びながら、
「なんだかんだ言ってニホンは豊かよ。戦争もないし、侵略もされない。結婚して子供を生めば手厚い保護と報奨金、特別年金もらえるし。安定した暮らしは何より」 
アリサは私の言葉を遮って、
「生活が安定しているのなら人間であることを放棄してもいいの?」
「放棄はしたくないよ、もちろん」
「私は浮浪者になっても人間でいることを選ぶ」
アリサの大きな目がきらりと光った。
「クニが支給する配偶者は最悪、マントヒヒよ。ヒヒヒ」
アリサが奇妙な笑い声をたてる。金髪に縁どられたその顔が一瞬マントヒヒに見えた。
「適当な人間の相手がいなかったら品種改良したマントヒヒを配給するなど、冗談にもほどがある」とアリサは笑い出した。
「マントヒヒと人間の混血種を作るぐらいならニホン消滅でけっこう。そう思わない?ルイ」
「思う、ほんとよ」
私が二十歳のころだったか……。
マントヒヒの研究がクニによって進められていることが国会で議題に上がった。この研究に反対する野党は敗退を続け、気がつくと議員はほとんど与党系になっていた。あの研究は今はどうなったのか……。
アリサの声が私を引き戻した。
「マントヒヒの研究は秘密で進められていたのよ」
「私たちには何も知らせないで?」
いつもの音楽が流れてきた。レジの女性が好きな曲なのだろう。『天国へようこそ』。最近の大ヒット曲だ。聞き慣れたのだろう。覚えてしまった。心の中でハミングしてしまう。慣れることは怖い。

今朝、配られてきた広報誌に私の目は釘付けになった。

『ここ三十数年間で、ニホン人男性は生殖能力に何か問題が起こったようで、女性を妊娠させることがきわめて困難になっているとの研究結果が発表されました。男性の不能が進むのは、男性が牛丼を過度に食べるようになったからではないかという説があります。牛丼に使う牛の肉は安い外国産で男性ホルモンを弱体化させる物質が含まれていると言われますが、真偽のほどは分かりません。われわれニホンジン、特に男性は、外国産の肉を使う牛丼を止めて自国栽培のバナナを食べましょう。そして体質改善に努め子供を生産しましょう』

広報誌をゴミ箱に捨て、一リットルほど水を飲んだ。心も体も脱水状態のようだ。それから半年。2082年の春だった。
市から水色の封筒に入った通知が来た。役所の通知はデジタル社会の今でも郵送だ。

『クニの配る異性を配偶者とするか。特別公務員になるか、希望する方に○印をつけてください。後で気持ちが変った場合は至急連絡願います』

とうとう来た……。
通知を無視したらどうなる?マイナンバーですべて登録されている。逃げおおせるなんて出来るだろうか。
でもこんな選択などしたくない……。
結局、どちらの項目にも印をつけず返送した。

(2)選んだ道

アリサとの連絡が途切れた。スマホをクリックしても『その番号は使われていません』と繰り返されるだけだ。
心配だ。でも、どうしようもない。
冬がきた。冬といっても寒くはない。温暖化の影響だ。市からはその後何の連絡もない。それはそれで不安だ。
アリサと連絡が取れたら何だかんだお喋りして気を紛らしたいのだが。何かあったのだろうか。
革命でも起こさない?アリサの声が蘇る。胸がちくっと痛くなる。
もっと真剣に話を聞いてあげればよかった。でも、あまり考えるまい。そのうち、久しぶり~って電話が来るかも。深刻になっても仕方がないし。
うすら寒い夕暮れどきだった。買物から帰って、玄関の扉を開けると、妙な匂いが流れてきた。
獣臭い。動物園のような臭い。家の中に何かいるのか。
まさか……。
手に傘を握りしめ足音をしのばせ居間に入る。
あれは……。
我が目を疑った。背筋に冷たいものが流れる。背中に灰色のマントみたいなものを被っているあれは何?どこかの子ども?
心臓が一瞬止まったような気がした。
尻尾が!
それは振り向いた。私と目が合った。尖った小さな頭、顔の横にはぼさぼさの毛、皺だらけの狭い額、落ちくぼんだ目、こけた頬。
まさか……。
クニや市の広報誌でうんざりするほど写真や記事を見ていたから間違いない。
マントヒヒだ!

『これから男性はマントヒヒのように強くなければ、国家の領土を護れません。また人口減も防げないのです。マントヒヒは今では絶滅種ですが、彼らの強さと生殖力はわたしたち人間が失ったものであり、復活させ、引き継ぐべき宝です。マントヒヒは、その強さゆえ、古代ローマでは神と崇められていました。ニホンでも、生殖力の強さゆえに、狒々(ひひ)と呼ばれて崇められていた伝説の獣がいます。おそらくマントヒヒの類だったのでしょう。わがクニではマントヒヒは絶滅しましたが、これからクニをあげてマントヒヒの研究、飼育、卵子と精子の培養に取りくむ所存であります。近いうちに、品種改良してより人間に近く、より優秀になったマントヒヒのオスが人口増加に一役買ってくれるのではないでしょうか』

1週間ほど前だったか。市の広報を読んだときは笑ってしまった。お粗末なマンガか、と思った。それなのに……。
今、目の前にマントヒヒが!
それは立ち上がった。子どもぐらいの身長だ。手に食いかけのバナナをもっている。
私は後ずさりした。
夢なら覚めよ……。
マントヒヒは私を攻撃する様子はない。とっさに傘を振り上げると身を縮め、拝むような仕草をした。
どうしよう……。
いろいろな思いが脳裏を走った。叩きのめそう!身長は私より低いみたいだ。取っ組み合いになっても五分五分か。
だが、考え直した。もしかして牙があるかも知れない。恐ろしい力を持っているかも知れない。
とにかく逃げよう。
廊下を走り玄関を飛び出し隣の家に駆けこんだ。普段から付き合っているわけではないが、それはどうでもいい。玄関のドアを引いたが開かない。叩き続けた。
後ろからマントヒヒに攻撃されたらどうしよう。
恐怖で顔が引きつった。やっとドアが開いた。細い色白の顔が身構えている。
「ウ、ウチに変な獣が」
それだけ言って私は口をパクパクさせて喘いだ。女は微かに後ずさりした。「マ、マントヒヒみたいなのが」
叫ぶ私に女は恐怖を感じたようだ。顔を強張らせ、私をじっと見た。目が鋭く光っている。もしやこの人、クニのスパイ?それとも私を精神異常者と思ったのか。
「た、助けてください」
「市に相談してください」
 女はピシャリと玄関のドアを閉めた。ガチャリと鍵をかける音。辺りに『拒否』という字が真っ黒に立ち上がる。私はその場に座り込んだ。
誰も助けてはくれない。誰も関わりたくないのだ。スマホがチカチカ光った。無意識のうちにスマホを握って飛び出したのだ。
汗ばんだ手の中でスマホの灯りがせわしく点滅する。手が震えてなかなか開けない。やっと画面を開く。
真っ赤な花の蕾が一輪、大きく現われた。花はゆらゆら揺れながら開いた。ダリア、市の花だ。花は微笑んだ。

『工藤ルイ様の場合。適当な人間の男性が見つかりませんでしたので、実験用に飼育していた優秀なマントヒヒの雄を配偶者様としてそちらに配給いたしました。後ほど、配偶者様用の水と食料は配布いたします。配偶者様の生活費の負担は一切クニが責任を持ちますのでご安心ください』

私は泣きながら笑い出した。あれが配偶者様だって……。 花は甘い声で続ける。

『マントヒヒは遺伝子が人間にとても近いのです。人間との違いはわずか11%。改良すれば、頭の悪い人間のオトコより、よほど良い種を遺してくれます。子供が生まれた場合、姿形は人間の遺伝子を100%引くので安心してください。どうしても配偶者様と暮らしたくなかったら離婚は自由です。調停、もしくは裁判にかけてください。離婚成立後の母親とお子様の生活は保証いたします』

花は可愛く笑って閉じた。
夜になった。私はどこに行けばいいの?近くの公園の滑り台の下で寝ようか。すぐに警察に掴まる。ホームレスの一類とみなされ登録されてしまう。それでも獣と同棲するよりはましか……。
とりあえず下着と洗面用具、マイナンバーカードと銀行カードの入った財布を大きな手提げバッグに入れた。
どうかマントヒヒが気付きませんように……。
そっと玄関の扉を開けとマントヒヒが!私の前に立ち塞がっていた。皺だらけの小柄な老人のようだ。
醜い顔!
私は吐きそうになった。マントヒヒは空洞のような目で私を見つめ、ゴゴゴーンと一声小さく啼いた。
どんな訓練を受けていたのか。自分の任務をきちんと分かっているようだ。身の丈一メートルもないような体で私を家の中に押し戻した。体は小さいのに凄い力だ。
「触らないで!」
叫ぶとマントヒヒは大人しく私から離れた。だがその目は明らかに私を監視している。私は恐怖のあまり動けなかった。今は闘ってはいけない。この獣を刺激してはいけない。
私はマントヒヒに向かって敵意のないことを顔で示した。必死で笑顔を繕った。他人はなぜ逃げなかったのかと思うだろう。だが異界の生きものの前に私は為す術もなかったのだ。
この獣は脳に国策をインプットされている。性的行動をするのが自分のミッションであることを分かっている。この恐怖に私は支配されてしまった。

マントヒヒはよく食べた。
器用に冷蔵庫を開けて、空っぽにするまで食った。食欲を満たすと、空に向かって小さくゴゴッ、ゴゴッキキッと啼いた。隣近所に聞こえないように声を小さくする教育を受けたのだろう。
それから部屋の中をぐるぐると左回りに回り続けた。目が回るのではないかと思うぐらい、ひたすら、左回りに回る。それが何を意味しているのか私には分からない。マントヒヒ自身にも自分の行動の意味が分かっていないように見える。
最先端の薬で脳を造り変えられ、本来の自分が分からなくなっているのか。それとも私と同じように生きるために今の立場を受け入れているだけなのか。
人間になり損ねて、類人猿のまま生き残った種。人間の子作りに利用されている奴隷。生殖機能の劣ったオスは殺されるとうわさで聞いた。
メスのマントヒヒはどういう扱いを受けているのか。
とにかく、このままヒヒに支配されてはいけない。私は人間なのだ。負けてはいけない……。
そうだ。逆の発想をしよう。クニに恩を売るのだ。いや、クニを脅迫するのだ。厚労省に電話した。
「マントヒヒはマントヒヒと性関係をもつべきです。メスのマントヒヒはいないのですか」
「マントヒヒにも個人情報がありますので」
「教えてくれないとあいつを包丁で刺し殺します」
「罪になりますよ」
「罪になってもいい。勝手に獣を家に送り込んで」
「で、お知りになりたいことはなんでしたっけ」
「メスのヒヒをどう処遇しているか、知りたいのです」
電話をたらい回しにされた末、生殖課課長を名乗るオトコが出てきた。
「私も学者ではないので正確に説明はできかねますが、マントヒヒのメスは人間の女性の代わりは果たせないようなんです」
「なぜですか」
「ヒトの子宮の役割は果たせないみたいです」
「それが分かったということは、メスのヒヒを人間の男性に配ったのですね、実験として」
「存じません」
「知っている範囲で説明してください」
「なんでメスのヒヒにこだわるのですか」
「同じメスとして心配だからだ。いけないか」
私は怒鳴った。大人しく話していたらなめられる。オトコのように怒鳴るのだ。なんで女は優しげなオンナ言葉を使わなければいけないのか。闘う時にオンナ言葉では敗ける。
「まあまあ、静かに話しましょう。とにかくいかなる薬を使ってもメスのマントヒヒの子宮を人の子宮のようにすることはできなかったみたいですよ」「それはそうだろう」
「人間の男性に配る計画は早々に頓挫したらしいです。ヒヒヒ」
「笑ってる場合か」
「笑ってません、鼻炎で息がしづらいのです」
「とにかく家に来たオスを引き取ってメスのヒヒと夫婦にさせてやりなさい」話しながら息切れがして電話を切った。
クニからはマントヒヒの食費、水、バナナが送られてきた。私とマントヒヒとのおぞましくも奇妙な同棲生活。
ペットなら、それはそれで成り立つ。世の中には猿やチンパンジーをペットにする人もいる、だが、この獣はペットではない。私を妊娠させるための用具なのだ。
夜になる。
マントヒヒは自分が何を成すべきか分かっているようだ。それが怖かった。寝室の鍵は壊された。発情したマントヒヒは私に襲い掛かった。逃げようにも力の差があり過ぎた。小さくても獣は獣だ。包丁を振り上げたが、マントヒヒに簡単に奪い取られた。
マントヒヒはさながらDV夫だ。DV夫から逃げ出せず結局支配されている女性の心理が初めて分かった。この無力感は経験した人にしか分からない。もしも妊娠したら……。
考えると怖くて気が狂いそうだ。
誰でもいいから人間の男性と結婚すればよかった。でも今となってはどうすることもできない。恐怖の夜が重なる。私は必死で抵抗した。マントヒヒの性行為はことごとく失敗に終わった。マントヒヒはゲッゲと啼いて退散した。
でも、明日は性行がなされるかも知れない……。
恐怖と睡眠不足で私の力は弱ってゆく。
もしも妊娠したら……。
産んで、すぐ離婚すればいい。子供を育てる気が無ければクニが施設で育ててくれる。自分の腹をクニに貸したと思えばいい。 
それともここを出てゆくか。ホームレスになってもかまわないと腹を括るか。
やっぱり殺そう。隙を見て殺すのだ。出来ない……。獣の力にはかなわない。毒を盛ろう。だが、どこで毒を手に入れる。
私は出口のない檻に閉じ込められていた。そして疲れ果てた。そのうちにマントヒヒを殺すという選択は消えていった。
獣でも一緒に棲むと奇妙な憐憫の情が湧く。機械でも電子機器でもない。獣とて、一つの命、温かい血が流れている。人間が好き勝手に利用したり殺したりしていいのだろうか。
あるときは不気味な、ある時は猛々しい、ある時は孤独な咆哮を聞きながら思った。
突然死してくれたらいいのに。何かの病気に罹って自然に死んでくれたらいいのに……。
そんな折、新聞の科学欄で目にした。オスの働き蜂は女王蜂と交尾すると死ぬ。そういうふうにプログラミングされている生物なのだ、と。
一瞬光が見えたような気がした。
この獣はオスの働き蜂のように交尾したら死ぬかも……。
こいつが死ねばすべてが終わる。神さま、お願い。この獣の命を……。
私もマントヒヒもクニに囚われている獲物、いうなれば似たもの同士。私がマントヒヒから逃げ出せないように、マントヒヒも人間の管理下から逃げ出せない。
どちらも不幸なのだ。私かこの獣、どちらかが死ねばいいのだ……。
ある夜、私は力尽きてヒヒにレイプされた。
それから……。
ヒヒの顔を見ただけで吐いた。

私の体に何が起ころうと月日は淡々と流れる。
年が明けた三月の始め。トイレの水が詰まった。市に連絡すると特別公務員が派遣されてきた。三十代ぐらい、男性か。目深に帽子をかぶり、一言も発せず、便座を外す。長い棒を差し込む。床下にもぐる。やっていることは、超アナログ作業の繰り返しだ。
あの、と私は思い切って話しかけた。
この男性の背中をどこかで見たような気がしたのだ。背中にも表情がある。「獣も使っているので、水が詰まったと思うのですが」
男はちょっと手を止めた。
「実はマントヒヒが」
聞かれもしないのに口走った。男は黙って手を動かし続ける。私はさらに余計なことを言ってしまった。
「クニに配られた配偶者なんです」
男は顔をあげた。大きな黒いマスクの上の目。どこかで見たことがある。大きな強い目……。男は掠れた声でささやいた。
「広報で宣伝されているあの獣ですか」
この声……。
あなたは、と声にならない声でささやくと男の目が少し笑った。笑うと子供のように無邪気になるあの目だ。男の目が笑った。
「ルイ、久しぶり」
「アリサ!」
「やっと気づいた?」
私は全身の力を失いアリサの横に膝をついた。
「あなた、なんで清掃員に?」
「クニの命令よ」
「なんで抵抗しなかったの」
「出来るわけない、今はね」
「私たち、どっちがましな……」
アリサはフフとマスクの下で笑って「多分、私の方がましな選択」。わたしは少し笑ってしまった。どっちとも酷い人生になったものだ。
「こんな仕事、あなたには似合わないわ」
「特別公務員になって、いろいろな人に出会えた。クニが公表していないことがいろいろ分かったよ。私の選択は間違っていなかった」
私はアリサの肩にすがりついた。
「私、どこかに逃げたい」
「自分で何とかしなきゃ」
「どうしていいか分からないの」
「それを考えるのよ」
私はあなたほど強くはない、と心の中で泣きながらつぶやく。その時後ろに何かの気配を感じた。振り返るとマントヒヒがくぼんだ眼を光らせて私を見ている。何が何でもここを動かないと言っている頑強な眼。
マントヒヒに知性があるかどうかは分からないが、意思があることは今までの生活で分かっている。私は力なく笑いながら、
「ヒヒは人間の言葉は理解できないわ。何でも喋ってだいじょうぶよ」
アリサはマントヒヒをちらと見て、
「女性の特別公務員は数が少ないのよ。ほとんど男性」
「なぜ?」
「男は生殖能力が弱っていてどっちにしろその方面では役に立たない。で、独身の男性はほぼ全員特別公務員、もしくはホームレス、あるいはホームレスの世話係。だから、この世界では女性は希少価値がある」
言いながらアリサは棒を振ってマントヒヒを追い払おうとした。私はアリサを手で制していた。自分でも不思議だ。
「なぜ止めるの?」
「なんだか可哀そうになって」
「洗脳されたの?」
私は苦笑いしながらマントヒヒに、「居間に行きなさい」。マントヒヒは奇妙な声を上げお尻を振りながら廊下の奥に消えた。白いマントが真っ赤なお尻の上でなびいている。
アリサがマスクの下で顔を歪めたのが分かった。
「言葉が分からなくても傍にいられると気持ち悪い」
「自分の任務は果たすけれど、それ以外は大人しい子よ」
「子……夫じゃないの?」
「クニには妊娠したとウソの報告をして、あいつを追い出すつもり」
「もう……あれ……」
アリサは泣きそうな顔で私を見た。私は棒のように固まった。アリサも固まっている。どれほどの時が流れたか分からない。アリサはマスクを外した。
「妊娠していたらどうするの」
「そんなこと、考えてもいない」
「研究用のマントヒヒは生殖能力にハズレがないらしいよ」
私は言葉が出ない。
「あなたのダンナがヒヒだってこと、知ってる人は?」
「隣の奥さん。でも、先日、引っ越した。理由は知らないけど。政府関係の監視員だったのかも」
「どうでもいい、そんなこと、とにかく」
アリサは厳しい眼差しで私を見た。
「検査すべきよ」
「……検査キットは市を通さないと入手は……」
「私たち、検査キット持っている。堕胎薬も」
「私たち?」
「同志がいるの」
アリサは薄く笑って「今の世の中を転覆させるのよ」私は辺りを見回した。息が止まりそうだ。
「ルイは同志になってくれるかも知れない。そう思って希望してここに派遣されたの」
無理、私には……。アリサは声をひそめ、
「わたしたちは子を生む機械じゃないってことをクニに分からせる。それが革命の第一歩よ」
「クニに勝てるわけ……ない」
「それはやってみてからの話。とにかく妊娠検査キット、試してみて」
アリサは小さな包を渡した。
「あなたの家に派遣されると分かった時に準備したの。そんなに驚かないで。離れていても、あなたのこと心配していたんだよ。結果はすぐ分かる。口の中の粘膜を取って棒が赤くなったら陽性」
国民が勝手に入手できないように厳しい規制をかけられているキット。こんなに簡単に手に入るなど信じられない。特別公務員たちはどんなルートを持っているのだろう。
アリサはトイレの吸い込み口に黙々と棒を突っ込み清掃業務に没頭している。私はキットを開け、棒のようなもので口の中の粘膜を採取した。ほんの数分後、棒の半分が真っ赤になった。
 私の足は草のようにフラフラとよろめく。アリサが私の手を握った。
「明日の夜八時、多摩川のホームレス保護区域に来て」
私は棒のように突っ立ってアリサの声を聞いていた。アリサがささやく。「体の中の異物を薬で流すだけよ」
その夜、いつものように私の寝室にマントヒヒが来た。私は隠し持っていた唐辛子スプレーをマントヒヒの顔に吹きかけた。唐辛子に弱いことを発見したのだ。マントヒヒは悲鳴を上げながら部屋を飛び出す。背中のマントの毛が猛々しくなびいていた。

『配偶者として配られた生物を故意に傷つけたら、刑事事件としてクニが告訴します』

こんなメールがクニから来たので、今までマントヒヒには逆らわなかった。逆らったところで、巨大な国家権力に立ち向かう術はない。マントヒヒの胤を貰って子を生んでもいい、とさえ思うようになっていた。これからの生活すべてが保証されるのなら。
だが、これほど唐辛子に弱いのなら、自然死に見せかけて殺すことも出来るかも知れない。
その方法もありか……。
もし私を妊娠させていたらマントヒヒは死ぬ。オスの働き蜂と同じように……。
ふと父を思った。父も働き蜂のオスと同じように死をプログラミングされていたのかも知れない。蜂よりは時間がかかっただけで。だからいつも面白くなさそうな顔をしていたのかも知れない。
                          (第一話終わり)



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